落書き帳 BACKUP 「ある日のテニスコート」のページに保存してあります。 2011.12.29 昨日で仕事納となり、今日は一日買い物をしたり正月前に洗車をしたり、冬の雪道に備えてチェーンを購入したりと割と多忙な日でした。年末という感じがずっとしていなかったのですが今年はゆったりとしているせいか年の瀬を感じます。ただ、風情が失われつつあるので目に見えるものは年末ではないのですけど。 私はしかしクリスマスが何だか知らないけれど街はざわついた中で・生活に緊張感のある中でやって来ているのをいつも感じていましたし、そのあとから大晦日までの間は皆が一年を締めくくり息災であれと願い、なんとか来年に繋ぐようにしているような慎重な安堵感を体に受けてきました。そういった意味では日本人は大まかにはその季節感を大切にして過ごしているのだと思うのです。ブツブツと言いながらも交通渋滞に怒りながらもふるさとへと向かい、何もしないで炬燵と友好を深めながら貴重な休暇を費やし、欠伸をしながら新年には都会に渋滞に文句を言いながら帰っていく。これが何年続いていることでしょう。文句を言うならやらなければいい。その通りなんですが、そうもいかない事情も深いのでしょうね。 さて今年は特別な年でした。東北で起こった地震や津波が私に直接の影響を及ぼしはしませんでした。しかし巡り巡って余波が押し寄せ、深く関わっていくこととなりました。それはなんの義務もないことですし、神戸にくれべれば知らない世界の出来事です。でも神戸より事態は深刻です。きっと人災の原子力発電所の事故の問題があるからでしょう。これに私はやはり関わるべきなのでしょう。生かされた私がやらねばならないことはきっと何かをやり遂げなければならない宿命が何かにあるからなのでしょう。 2011.12.19 朝から少し寒いはずです、山間の朝は冷え込みます。昨晩は湯の山温泉に泊まりました。ここはひなびた・・というと土地の人に怒られるかも知れませんが、歓楽街などない山の坂道をの両側に所狭しとホテルが建っています。1300年くらい歴史があるとのことで由緒正しい温泉のはずですが、逆に再開発が遅れてしまっている印象です。ただ都会化されてしまっている温泉よりも、静かでのんびりと楽しみたいという方にはお勧めかも知れませんね。ホテルの屋上に出ると、御在所岳が前日の雪を残し、まだ紅葉の名残の山肌とに朝日が映えて綺麗です。人の気が感じられないピンと張り詰めた風景に寒の美を見つけました。イノシシ達が遊びに来るというホテルの裏庭はなるほどの風情がありました。 四日市ドームまで40分くらいと踏んでいたのですが、途中で朝食を買い込んだり、ゆっくり走っていたせいで到着したのは8時半をとうに過ぎていました。少し準備が遅れましたが、早速練習です。何となく昨日の練習が少しやりすぎたと思っていましたが、やや重い・・こんなことで良いかな?と思いましたが。。 試合は1試合目から、トヨタ自動車・アカエムの谷山・坂本ペアです。ラリーをやっている様子ではまあこんなものかな・・と思いましたが、攻撃的でセンターをどしどし攻めてくる後衛です。それはあまり気にならないのですけど、なんとなく受けてしまうのが嫌でした。気持ちが受けている・・と感じたのは4ゲーム目位でしょうか?どのゲームもポイントは握ったりジュースまでは行っているのですけど押しきれない。今年のテニスそのままです。試合ごとに反省点が十分出ているのに改善されていない。それは上を見て一心不乱に進んでいった頃とは少し様子が違います。なんとかなるかも・・といった根拠のない期待感が少しでも心に生まれたとき、進歩も休息を迎えます。あくまでも道を拓く者ならば、孤高でなくてはならないでしょう。100の言葉よりも1つの確実な事実が欲しいのです。我々は不甲斐なくも1試合目で敗れました。それは敗れるべくして敗れたといっていいものでした。次を考えていればいいのですけれど。 2011.12.18 昨日、本日と名古屋から四日市に行ってきました。四日市ドームでミズノカップが開催され、今年は大阪から3ペア、成年で奈良から1ペアが参加しました。かねてから愛知ウィングクラブの大川さんと練習を一緒にやりましょうと話していたのですけど、お互い多くの試合に出るためスケジュールが合わず、今日まで至っていました。この試合の前日に名古屋で練習しませんかとのお誘いに丁度良い機会と参加させていただきました。そしてそこで驚くべき出会いがありました。元アカエムクラブの小橋さんにお会いしたのです。大川さんのお知り合いで時々ウィングクラブにお顔を出されるとのこと。前回の合宿で、小橋さんに声をかけておきますと大川さんの奥さんから話しがありましたが、まさかと思っていたのです。思い起こせばもう何年前になるのでしょう。私が東京インドアを大学一年の冬に見に行ったのですが、その時印象に残ったのがこの小橋さんと木口・横江ペアでした。小橋さんは以前にも書きましたがストロークが素晴らしく東京インドアでのバックハンドの華麗さは今でも目に焼き付いています。鋭く切れ味鋭くコーナーを突く球筋を今でも思い起こせます。また、フォアバック共に切れ味鋭いボレーを何の苦もなく決められました。1973年1月のことでした。特にそのストロークと横江さんの運動能力をフル回転させたボレー、特にバックハンドのリーチの広さと華麗さ。スマッシュのどこまで追うんだ?という破壊力と正確さ。このお二方の各プレーは今でも網膜の印刷物としてしっかりと残っているのです。お顔を拝見し話しをするのは初めてなので、何から話そうかと思っていましたが、東京インドアのことやショウワコーポレーションの話しなどしている内にあっという間に時間が過ぎます。ご出身は丸亀高校で関学となると、小早川さんの先輩ですか・・ということで・よく知ってるよ!彼の学生時代に僕が監督をしていた・と世間は狭いですね。先日丸亀でお会いした多田さんなどの話しをしていると益々近いものを感じます。お話をしている内に前衛の心構えみたいな話しになりました。小橋さんは・元来前衛というものは後衛を働かせられなければ良い前衛とは言えないんだ・と言われます。・要所を締めるまでは、後衛が苦しくならないようにポジションを取っていれば良いんだ、そうすれば取れるんだよ・と。驚きました、と言うほどでなく当たり前のことなんですが、私の常に言っていること、やっていることを口に出して言われると妙に納得すると同時に安心してしまいました。間違っていなかったんだ、この僕がやってきたことはこの偉大な先輩もやっておられたことなんだと。。僕はこれからも今やっているテニスの完成を目指して頑張ってみます。勇気が湧いてきました。 そのうち新開さんもやってきて練習が始まりました。新開さんは仕事が忙しく、余り練習できていないせいかどしどし試合をしたい感じです。僕はリラックスしてテニスすれば良いのではないかと思いますが、彼はフル回転です。・・明日にその調子をとっといてよ・・と頼みましたが、ビシビシ行くのです。もう放って起きます。結局3試合やって帰りました。 2011.12.12 12月は今年の締めくくりの行事が次々とやってきます。我がクラブの忘年会もそうです。12/10でした。今年は遠征が多く、八尾の試合と重なることが多かったので、あまり市の試合に参加できませんでした。でも練習は必ず体育館か土曜日に行くようにはしています。できることをやっているので赦していただきたいと思うものです。 さて、今年も本当に終わります。皆色々な課題があるでしょう。一般男子の山岡くんが「八尾は一般男子が頑張らんとイカンですよね!」と言ってくれました。今年は女子、成年、シニアと大阪での入賞、近畿・社会人・全日本と成績も良かったです。特に成年男子須山氏の近畿2位、シニア70の亀井氏の全日本3位は素晴らしいです。女子も加盟団体で2位と着実に力が伸びてきています。一般男子は今力を蓄えているところかも知れません。でも歯がゆいのでしょう。もがいてください、もっと。勝つことだけがテニスではないけれど、結果を求めて努力をどれだけしてどれだけのものが自分に備わったかを確かめると思えば、それも意義のあることでしょう。日々を自分のレベルで遊んではいけません。できることだけをやってやれたと喜んではそれはレクリエーションです。チャンピオンテニスを望むならば、過程が大切です。日々を大切にして欲しいと思います。 2011.12.6 時間は自分では制御できないものです。ただ、感じ方はその時の多忙さや意識によって違います。人生が長いと感じる人も短いと感じる人もいることでしょう。私などは、歳を食うたびに日々が短く感じられます。一日では物事が片付かないどころか一月でも足りません。一年が一日のごとく感じられることもあります。忙しいからではないのでしょうね。したいことが多すぎる。でも実際に出来ることは少ないですから。 先日の岡山県高梁市での青年会合宿もアッという間に過ぎました。楽しい時は早く過ぎます。同好の士達の集まりは、特にそうですね。 毎年、志を持ってこの合宿に参加される方が多く多くいらっしゃいます。シニアは一つとなり、自分たちの希望を継続していくことが大切だとつくづく感じます。 今年の合宿は、中四国・近畿から中京地区まで広範囲から集まって来られました。それぞれに求めるものが違っています。それは夜の懇親会でする話で分かることなのです。技術も人のすることなので、ついつい弱さが出てしまい思ったように進捗しないのが実際のところでしょう。もしも非常に冷徹に自己分析ができて、それを克服することに全神経を注ぎ徹することが出来る人がいれば、きっともっともっとスポーツは何でも上達することだと思います。かつて強かったが、今はなぜか勝てない。今だけスランプに入った気がする。どういうわけか戦い方が分からないので何をしていいか分からない。前衛と考え方に差がある、逆もある。などなど、皆さんの悩みは多くしかも多様です。 我々は小さい頃からソフトテニスに親しみシニアになるまでには20~30年の間プレーしてきたわけです。中には社会人になってからあるいはシニアになる直前に始められた人もいるでしょうけど、皆同じくこの競技の虜であるということです。そして、長く続けているとこの競技の良さも分かってきますし、魅力も次第に変わってきます。若いうちは後衛ならば相手より速くボールうち、強くねじ伏せようと躍起です。前衛は後衛の速いボールをどれだけ真心で捕らえ、どんなボールも鉄壁にはじき返し、逃げてくるボールは完璧にスマッシュで破壊する。今はダブルフォワードで展開などさせず全て攻撃的なボレースマッシュで打ち砕く。・・・・そういった妥協や待ちを良しとしないものだったように思います。日本ルールでは、前後衛のスペシャリストがそれぞれの技を究極まで高めようとする気高さを感じていたのも事実です。 年齢が上がりやがてシニアになります。成年でも一般の延長ですが、ボールの切れも速度も悪くなります。前衛も足に自信が無くなりかけます。シニアでは遅くなったボールにさえ追いつけなくなる前衛です。そうしてみれば前後衛共に弱点が分かり、不用意に打つこともできず、前衛は出ることもできずチャンスを待ちます。この緊張感が筋肉に負担をかけ痙攣をよく起こすのです。ボールの流れに沿って予測をしながら小刻みに動く足、それを30分1試合として決勝まで行けば5~6試合ですね。痙攣もするでしょう・・。この変化に対応できた人達がシニアのテニスの究極を楽しんでいると思います。今年の合宿で色々話した方々に明確な答えを言えたかどうかは分かりません。しかしこれだけは言ったつもりです。テニスは元々シングルスであると。ダブルスが始まり、ノーバウンドで取っても良くなりやがて前後衛が生まれ、サーブの得意な人、ストロークの得意な人、ネットプレーのうまい人に別れたのです。シングルでもネットにつくのは出玉が良くなければ出られません。ソフトテニスでもポーンと後衛の前にロブを打ちネットにつく人は実に多いのですけど、本来はそれは足下を狙われるのがオチで危険なプレーです。一般男子ならまずやらないでしょう。アプローチショットは大切です。前衛は心しておかねばならないでしょう。前衛はボレーを取ろうとすれば隙ができ、パッシングを受けます。前後衛はその騙し合いですからどれだけ我慢できるか、どれだけ持ってこさせないよう、後衛に厳しいボールを打ち込ませないように、厳しいロブを通させないようにポジションを考えなければなりません。もちろんデフェンスができることが前提です。デフェンスのできない前衛はいくらでも打たれますから。自分の思ったところに来たボールはまず決めることができるでしょう。しかし、騙し合いです。相手が打ちにくいところへ打つのがこのスポーツです。難しいボールはつなぐという割り切りが前衛にも必要です。前衛は触ったボールは一発で決めなければならない・・と昔は言われました。全てが正しいわけではないですが、接近戦のボクシングをやっているような一般ではつなぐボレーは勿体ないと思うでしょうね。でもシニアは違うのです。ミスが多い方が負けです。難しいボールや予期せぬボールは心の準備ができてないのでそれを全て決められません。それよりも一本つないで、チャンスを待った方が良いのです。無理をしない凌ぎつなぐボレー、スマッシュが必要だと言うことがシニアには大切でしょう。後衛も同じです。昔からトップ打ちの練習は良くやります。しかし、打ち込まれたボールを凌ぐ練習は少ないし大切だと思わないのでしょうか。また、凌がれた相手のボールが深く攻撃できないが攻められない。しかしただ同じように返して逆に甘くなれば攻められる。そこで何とか返すだけでなく攻撃もされにくい繋ぎのボール(中ロブから深めのシュートボール)が必要になってきます。前衛が狙いやすいボールなので出れば抜けるだけの余裕を持って十分に引きつけて相手を止めて打つ打ち方です。この3つをうまく組み合わせることがシニアでは欠かせないでしょう。ミスを多くした方が負けます。ポイントを多く取るよりも、ミスをしない方が強いのです。 パートナーとのチーム力が高くないとシニアは勝てません。どれだけ信頼して信頼されているかがキーだと私は信じています。 2011.11.24 11/23は勤労感謝の日ですが、毎年茨木で高岡杯があります。シニアの大会ですが、立地条件の良さから京都、滋賀、兵庫、大阪、奈良といつもと違うメンバーが集まるので楽しみにしています。シーズンが終わってるのでいろんな人と組んでいけるのもいいです。今年は中村選手と行きました。堺オープンでも後衛としてはひと味違う達観したところを見せていました。春先はまだ自分で崩れていく脆さがありましたが今は押しても動かない岩のような大きなものを感じています。組んでみればおそらくこのようなイメージでいけるのだろうなと頭では思っていましたし、そういった後衛と組むときはどの程度のプレーをすればいいのかなということを知り自分のプレーのセーブをする事を続けるチャンスでもありました。 思ったように、一試合目から安定したストロークが続きます。途中引っ掛けたりアウトしたりはありますが、まあそんなことはあるだろうと思っていればかえって気が楽です。緊迫すればミスは出ないなと感じます。組んでみて本当に今彼は凄い選手になったのだと改めて思います。彼の方にボールを向けていればだいたい何でもしてくれます。時々策に溺れて甘くなった玉を取られたりしますが、それは仕方が無いでしょう。90%以上の確率で有効打が飛んでいく・・これは今年組んだ試合で尤もいい状態であると思いました。下手に何かをするよりも危うくなるまでは死に玉処理で十分だと思います。変にロブをさせないようにだけ気をつけていれば困って私に持ってきてくれるでしょう。ほとんど危なげ無く進行しました。準決勝の川下・中上ぺあは55になりたてでボールの勢いがあります。やはりボールが速いなと思うのは、慣れた相手とやりすぎているとやはりそれはある意味では馴れ合いなのでしょう。時々は自分が絶対にやらない相手とやってボールの緩急を確認したり目や力が落ちていないかを見るべきなのでしょう。レシーブキープで進みました。サーブのいい中村氏ですが、この日はほとんど入りません。珍しくブツブツ独り言が聞こえます。入れようと考えすぎると、かえって手が縮こまってダメなもんです。きっと珍しく無難に入れようと思ったのでしょう。ストロークと違いこの日はサービスはあまり良く有りませんでした。しかし、それを上回るボールコントロールで若い川下氏を圧倒して勝利。決勝は原田・柿原ペア。原田さんとは今年6回目、柿原さんとは5回目です。最初、小早川氏と組み、春先の大会で当たり負けてから今年の調子が狂い始めました。しかし、次の若水ではお返し、それ以後このペアでは負けていません。よく考えてみればダブル後衛は片方だけを狙えばいいのです。ポイント力のない為に2対1で試合をしているのと同じですから、勝てるはずがないのです。落ち着けばいいのです。この日は徹底して原田選手をつき、甘くなった玉を叩くか焦れた柿原選手に一本送れば必ずミスするか前衛に持ってくるかです。勝つための戦法は彼らにはないのです。中村選手の速くコントロールされた玉を私を避けながらミスなく続け、逆にポイントすることなどほとんど不可能です。私が無理をして動き、空いたところを逆ポイントするなら話は別ですがそういった戦法を私たちは取っていなかったからです。 ダブル後衛は最初はやりにくいですが、決めてしまってそれをブレないでやり通せば負けることはないでしょう。 本日は、中村選手とゲームの中でどうするかを打ち合わせて体制を立て直したり、戦法を統一したりといった事が出来るかを確認もしました。彼はそういった意味ではブレることなく決めたことを徹底的にやり通します。パートナーとしては最高に素晴らしいことだと思います。中村選手はいつ全日本をとってもおかしくないし十分その資質と技術があると思います。チーム力を高めて勝てるようにすることが課題でしょう。我々も最高の選手を相手にいつも練習しているのだと感じます。香具山のコートから多くのチャンピオンが生まれるように努力して練習します。 今週末から、岡山の青年会合宿が恒例の高梁市の総合運動公園であります。始めた頃に比べて多くの友人達が集い、テニスを通じて大きな和ができてもはや最初の意味合いとは異なったものになってきています。中心であった高宮氏が他界し、サブであった長瀬氏が海外に赴任、青山氏が交代勤務で参加困難、荻野氏も横浜に転勤となり、今や小野氏と松本夫妻が最初からのメンバーで中心となってやって下さっています。私も大阪ということで直接運営はしていませんが、いつも丁寧な運営と細かいご配慮など本当に皆さんには頭が下がります。このいい合宿に皆さん参加して頂きたいとお誘いして今年も名古屋の大川さんや篠山クラブの鳥居さんなど新しい方に来ていただき嬉しく思います。私も、高宮氏と相談して安達・直原さんにお声がけして来ていただいた時の感激と興奮を忘れません。あの偉大な全日本チャンピオンが我々と同じコートでプレーを見せてもらえる。そして酒を飲み話をする、考えただけでも胸が踊ることでした。そして、食事の後、高宮氏が「せっかくチャンピオンが来ていただいてるので、テニスの秘訣や組み始めた時のことやどういう気持ちでプレーしているかなどお聞かせ頂きたい」とお願いしたのです。彼らはすっと立ち上がり壇上へ。二人で組み始める前のペアのことなど話されましたが、もう大部分は忘れてしまいました。しかし、彼らはお互いを尊敬し、プレーを信頼し、もちろん個人の技量も素晴らしいのですけれど、ペア力ということに重点を置いていました。一人ではテニスはできないよ。その言葉の裏側には、自分たちを見て学んで欲しいという願いもあったのでしょうか。何しろ朴訥に語られるお二人の言葉はなるほどと納得することばかりで、そうかペアはこうあらなければならないんだと見な感心したと思うのです。お二人は酒もほとんど飲まず、語られたことは飲んでの上のことではありません。普通に思っておられたことを普通に語られただけなのでしょう。僕には、いやその場に居合わせた20人ばかりの仲間たちはきっと至福な瞬間だったに違いありません。テニスはそれまでも誰にも負けないくらい好きでした。おそらくこれからもきっとそうなのでしょう。しかしその瞬間から僕はテニスの持っている個の技術を上げることとは別にペアとしての力を上げることをもっともっと考えるようになりました。 2011.11.21 毎年11月第3土曜日に行われている広島の中国オープンが雨天延期となりました。初めてのことですが、会場の広島中央コートはとてもいいコートなのですが珍しくクレーです。雨天には弱く、それだけが気がかりなことでした。少し前のアジア大会でも雨天の中役員さんたちが必死で水取りをされながら試合が進行したと聞いています。出来ればオムニコートにして頂けないものかと思うものです。ソフトテニスの都市として今や殆どの国際大会が年1回くらい開催されている広島に素晴らしいコートを誘致する努力はソフトテニス連盟にあってもいいのではないかと思うものです。 昨日11/20は堺市で堺オープンが開催されました。この大会も成年以降の年代の大会として始まったものですが、成年の参加が少なく3-4年前からシニアの大会になりました。最近成年の人たちも少し参加者が増えているように思いますが、大会が少ないのが実情です。一般の時はそうは思わなかったのですけど、今は痛切にそれを感じます。出来れば大会を多くしてしかも参加費が安く、もっと技術を確認し会える場が必要ではないでしょうか?今年は参加費用に対する考え方の議論が行く先々で色々ありました。今回はその事について考えてみたいと思います。実名を出して申し訳ないのですが、岡山の大会でいえば、エントリー費が岡山壮年全国大会は\5,000、その前の玉島真田杯は\3,000 それくらい安いといえば安い、高いといえば高いです。1日遊んでそれくらいで遊べるところはないでしょうと言われるのも良くわかります。私も運営する側がありますので経済的なことも考えなくてはならないので赤字にはできないと思っています。が、それでも参加者の数から見ればテニスをしている人の意識ははっきりしています。1-2週間以内の近傍の試合であれば参加料の高い方はやめて安い方の試合にしようかと思うのでしょう。特にここ最近の岡山壮年大会への参加者は少なく益々減少しています。それに引き換え真田杯は近隣各地から大勢の参加書を集めています。単純にそういった参加料だけではないでしょう。今は各団体が自分のところでの主催大会を持つようになりました。それはいつもお世話になっている他の試合への恩返しの意味もあるでしょうし、いい大会を末永く続けていきソフトテニスを絶やさないようにするんだという意気の表れを持たれているところもあります。私たちの八尾でもそういった意見もありますし運営できるコートも最近では安定して使える可能性も出てきました。しかし現実は開催する日程が難しいのです。現に多くの都市にご参加いただいている八尾市長杯(団体戦)でさえもかつては11/3の文化の日固定日でした。しかし高槻のミックス後藤杯や南河内地区の団体戦、昔から来ていただいている豊中市さんが豊能地区の団体戦と重なるため参加できないなどの事情があったため11月第2週に移動した経緯があります。しかし、2週間延ばしたため日没が30分程度早まり多くのご参加を頂くと運営に困る始末。これでは個人戦も開催できないねというのが事実なのです。遠くに行かなくても、費用の高い大会に出なくてもテニスが楽しめるなら良いではないかという気運もあります。特に若い人はそういう風潮で、昔なら大阪の選手権と八尾の大会が重なればもちろん大阪の大会に出たものです、今は違います。ローカルの大会の方が参加料が高くないためにローカルの大会に集まるのです。皆がローカルに集まれば中央の大会は権威が無くなってしまいます。今は名誉だけで動く時代ではありません。それが通用するのは良くて40代、いや50代でなければ無理かも知れないのです。それが証拠に、ローカルの大会への一般、成年の参加は少ないではありませんか?北村の大会、福知山の大会、神戸の大会、更に大阪の大会や西日本、全日本の大会でさえもその兆候が見られます。運営する方々は、そのあり方を今一度議論して、参加者の多い華やかないい大会にできるよう努めていただきたい。私どももそうしたいと思っています。 大阪でも、北村全国大会、東大阪超壮年大会、吹田スーパーシニアカップ、西日本奈良大会と\5,000を超える大会が有ります。出来れば、色んな事を考慮して参加しやすい様にして頂ければ有難いと思います。 堺オープンはそういった意味では非常に参加者側に立った運営をされていると思っています。よくあれだけの安価な費用で運営できるのだと、一度ノウハウをお聞きしたいものです。 さてこの大会は毎年小早川さんとの年度最終の試合と位置づけて出場します。いいことが少なかった今年ですが、先への課題も見つかり、各々がどこまで克服したかを判断する試合でもあります。ですから負けたくもなかったし、できていなかった課題もどれだけ緊張した試合の中でやりきれるか・それを試したかったのです。私の今年の課題は①スマッシュの改善②ストローク力の強化③クロスボレーの強化でした。 ①私は実はスマッシュは得意な方で、高校時代からこれだけは人よりも自信があったものです。いち早くイースタンを取り入れ、破壊力と安定性はまあある方だと自負していました。シニアになって特にシニア50になっておかしいなと思うことがありました。ストレートスマッシュを引っ張ろうとするとサイドアウトをするのです。流すスマッシュはそんなことはないのですけど。ストレートラリーや頭越えのスマッシュを前衛側に引っ張ろうとすると手首が返りきらないでバックアウトしたり無理やり返してサイドアウトしたりします。極めつけは山形での全日本準決勝で大瀬・林ペアとの2-0、2-0からのストレートスマッシュをそのアウトで3-0になるところを2-1となり、息を吹き返されて逆転負けをしました。あのスマッシュを決めていればまず負けることはなかったのではないでしょうか?それほど意味のある大きな1本でした。それ以外にもこのコースのスマッシュでのミスが命取りとなり昨年は何試合か負けたことがあり私の最も大切な改善事項でした。若い時と違い手首の強さや背筋力が明らかに落ちています。イースタンはポイントが決まれば破壊力はウエスタンとは違い何倍も手首が効きますのですごいです。しかし我々は哀しいかなそこまでのものがすでに失われてきています。女性がウエスタンで打つほうが安定していることを思い出し、今年の初めからスマッシュはウエスタンに変えてみました。そうしたところ確かにミスは少なくなり課題にしていたコースも克服できてきました。ただし破壊力が乏しいのでコースを間違えるとフォローされるという危うさが有ります。まア、課題はひとつクリアーです。今日も何本かありましたが、ミスはありませんでした。 ②ストローク、特にアプローチショットの安定性を増すこと。現在のルールではサーブをして一本目に出るのは余程のビッグサーバーか恐ろしく足の早いネットプレーのうまい選手ですが、残念ながらシニアの選手にはそんな素晴らし選手はまあ見当たりません。それは仕方のないことなのです。ですからどうしても1本目、2本目のストロークで相手に負けるわけには行きません。ソフトテニスではロブを打って前に出る選手が多いのですけど、僕にはそれはあまり正しいこととは思えません。無難に自分の責任を放棄して、後衛に任せたぞという感覚ですね。自分に打たれれば取りますが後は知らないと。シングルならどうしますか。そんなことでは簡単に逆ポイントですね。アプローチはやはりこちらが圧倒的に有利になるように打たねばならない。後衛と打ち合って負けるようではイカンのです。昔凄いなと思った選手は、赤Mの小橋選手、横江選手、この二人はストロークでも素晴らしいところを見せてくれました。前衛もあれくらいラリー力がないと本当はいけないんだと大学生の頃実感したものです。私も硬式などの試合を見てその通りだと思っていました。相手が困る返球をするところに有効打をうちポイントする。自分ができなくても後衛がポイントする。このようなストロークをすること。完成度を上げることに心がけてきました。時々ダブル前衛での試合をして本気で試合をし、緊張感のある中でのストロークをするのはとてもいいことだと思います。これもまあ大丈夫でしょうか? ③後衛力がいつまでも衰えず、前衛が死に玉だけを叩いていれば勝てる・・ということは今のテニスのルールではまず考えられませんし、彼らも年を取ります。今まで通っていたボールが通じない、そんなことを若い人とやれば感じます。やはり前衛も後衛のカバーをするためもう少しポイント比率を高めて行かないと勝てないでしょう。特にうちのチームはそうです。後衛さんはどちらもポイントは自分でしていくタイプですから、気が楽ですけど負けだしたら止まらない。逆に自分がとって助けてあげることも必要です。今まで余り積極的にクロスボレーは出ない方でしたが、今年は取ろうと決めていました。しかしこれが一番難しい。これはまだ練習中です。気が弱いのかなと思ってしまいます。鶴岡選手の思い切りのよさを見習いたいものです。 2011.10.31 物想う秋は遠い過去のこと、高校生時代とかまだ山の中の寒村で暮らしていた頃、はるか遠くの土地に憧れを抱き、はるか将来に夢をいだき、山のアナタの空遠く幸い住むと人の言う・・云々、頭の中を色々なものが渦巻いていた頃が無性に静かな風景となって去来するのはなぜでしょう。何も知らなかった頃でした。何がこの世の中での真実で何が嘘かも、何を信じたらよいのかも、何も知らない頃のことです。誰もが人生の旅立ちに胸を踊らせ、何があるのか分からない時の彼方に早く行ってみたい、早く何かを覗いてみたいと思った時代がその頃でした。あれは幻想だったのでしょうか?そうですね、飛び込んでいけば用意されていて、そこは夢の楽園だというのは幻想だったですね。何も無いところである、先のことは自分たちが築いていくもんだと気が付かなくてはいけなかった。思えばそれがすべての始まりで、全てそこから始まるのでした。ただ、何も先には無いのだと気がつくまでには時間がかかりました。どうしても僕達は今の世の中がかなりしっかりしたものなのだという、やはり幻想のなかで生きています。生まれたときにある世界がいいとは思わなくてもそれは自然に続いていくものだと根拠のないものを持っていたのです。ひょっとしたら、父母たちはそんなものは捨て去っていたのかもしれません。昭和20年のあの敗戦の日から、信じていた世界が崩れ去っていくのを見てきたのですから。 2011.10.30 あっという間に今年の10月も終わりです。10月の中頃、体が疲れすぎたのか思うように動けず試合も9月からどんどん低迷していってました。出れば負けが繰り返され、見ていた人達からも随分と動きが悪くなったねといわれることも多かったですね。背中に張りがあり、マッサージの人には、全身カチカチでよくこんなんでテニスしてましたね!と言われる始末。確かに今年は連戦が多く、特に土日のダブルが多かったので、疲れが抜けないのでしょう。過ぎたるは及ばざるがごとしとは言いますが、まさにその通りで、やりすぎれば蓄積された疲労は次第に動きを鈍らせます。全大会にベストコンディションで臨むのは、アマチュアには無理です。しかし、ペース配分は間違ってはいけませんね。それはプロだろうとアマだろうと関係なく共通していることなのです。今年はどれくらい自分ができるのだろうかと、可能な限り無理をしたと思うのです。でも、おかげで限界が見えました。これ以上やればコンディションを損なってしまう。その自分での抑制力との戦いがこれから始まるのでしょう。やらない勇気、そういった停止することは今までの自分の中には多くはありませんでした。しかし、負への価値を認めることが必要なのですね、と思います。 2011.10.11 3連休はテニスに明け暮れて過ごしました。一日目は橿原クラブでの一日練習会、10ペアほど集まって練習試合で過ごしました。万葉の故郷での澄み切った秋晴れのもとで一日テニスをするこの幸せはなんとも言えないものがあります。不幸にして今年はその恩恵を得られない方々も多いので少しばかり遠慮を感じてしまいますが。 10/9は福知山で全関西大会が開催されます。新開氏が仕事で参加できず、中之島クラブの小西氏と組むこととなり、その練習もかねてペア練習となりました。若いときから剛球打ちで左利き特有の流れるフォアと破壊的なバックハンドが特徴です。成年の頃は大阪の国体予選や選手権でよく当たったものでした。しばらくペアの大西さんが試合に出られないこともあり、遠ざかっていました。今年は6月の芦屋オープン準決勝で大西・小森ペアとやりましたが復活を思わせたものでした。ただ上位に来たのは久しぶりで、準々決勝は常久・堀内ペアで打ち合ってかなり疲労したことは間違いなく、我々とやるときはすでに体がぶれていました。しかしそのイメージでありましたので少し安心していたのも確かです。練習が始まりました。やはり、練習不足か1~2本でのミスが目立ちます。つなぎだしてミス、打ってアウトが多いですけど、次第にリズムが出てきたようです。受けて立つよりも攻めていってみようと私も攻撃に徹しました。そのせいもあって、殆どの試合がファイナルでした。勝ちきれないなあというのはありましたが、何とか明日もいけるだろうと思ったものでした。 その夜は、大和八木駅近くの中華やさんで8名ほどでの懇親会があり、初めて橿原クラブの面々との酒席に同席することができました。もう4-5年もお世話になっていながら、こういった機会がなかったのは、私が大阪で遠いので呼ぶのは遠慮されたと思うのです。ただ私の家から八木駅まで30分くらいですので、余り気にすることもないのですけどね。小早川氏とも今年の反省などをしたのですけど、お互いの今年の課題や克服状況、来年の課題などを話したのでした。それだけでも大変参加して有意義な1日でした。55のクラスもそろそろ終盤です。若い人の力も出てきていますが、我々への他ペアからのマークもきつく、研究されているのだなと感じた一年でした。また二人の体力の衰えもあり、早めの勝負に行ってしまったことも事実です。ここを乗り越えて初めて我々はもっと強くなれるでしょうし、ペアとしての正念場を迎えていると言っても過言ではありません。今まで勝ってきていたパターンを解析し、これができれば勝てるんじゃないかと思える方向が見えてきました。思えばペアを組んではや8年、本格的には6年くらいですが、昨年まではなんだかんだ言ってもそこそこの勝ちがありました。しかし今年は見事に負けが増えています。小早川さんと組んで予選落ちは本当に数えるほどでしたが、今年は多い。更に決勝では殆ど負けなかったのが、今年はことごとく負けています。悪いところも少しは話し合ってきましたが、今回のように、お互いが腹を割って話し、こうして勝とうと思ったのは初めてのことでした。それで良いのだと思っています。我々はこれで小早川・高原ペアとしての階段を上がれるかも知れない。そこにはお互いを信頼してお互いの技術を確立する強い意志と実行力が必要なのですけど。 今回改めて小早川さんは橿原クラブが大好きなのだということが分かりました。全日本で勝つことも大切だけれども、橿原市の大会や団体戦も大切にする。それが彼のポリシーであり、良いところですね。僕も今は八尾の皆さんに、しばらくは外に出させてくださいと無理をいってでています。しかし、そろそろ中の大会もしっかり見ていくべき時期が来つつあるのかとも感じます。私もそろそろ退職後の具体的な活動を考えねばなりません。 10/9は全関西大会。ソフトテニスの町として有名な福知山市のこの大会は、市を挙げてのバックアップを感じます。当日は福知山市長が歓迎の挨拶をされ、ソフトテニスのための施設の充実を約束されていました。特に、三段池公園コートの片面をドームにしてしまうという話しがきっぱりと強い口調で述べられ、現市長が落選しても次に引いていく道なのだ、という力強い意思を感じたものです。当市の市長も市民の目線に立ち、小さな施設にも気を配っていただいています。代理ではなく、本人がやってきて、挨拶をして現場とコミュニケーションを取り現地の視察をすることはトップとしては、自然で年1回しかないチャンスではないでしょうか? その姿勢を見て我々は市長のやる気を感じ親しみを感じ応援するでしょう。私は決して市長に何の関わりもあるものではありませんが、歴代の市長が誰一人として来られなかった八尾市長杯に毎年欠かさず出席され、挨拶と施政方針を述べられる姿には、ソフトテニスを愛するものとしてその心意気に感じ、感謝するものです。 さて試合は、残念ながら初代・永井ペア、福谷・林ペアにそれぞれ1-④で負け、リーグ脱出はなりませんでした。やはり、本当の試合と練習試合は違いますね。ボールが生きています。気迫もあります。その気迫に対峙できてはじめて試合が始まるのですが、我がチームにはその立ち合いのにらみ合いですでにやや負けていたかも知れません。たたみかける勢いがなかったですね。試合をやっているときには、自分がどのような状況でも言い訳ができるものではないのです。大阪の言葉でいえば「どつきあい」をやっているのですから、怪我してようが風邪引いてようが関係ないのです。テニスをする自分に集中していたのか?ペアのことが気になったとか、ボールへの対応が100%でなかったならば、勝てるはずがないですよね。あの短い20分強の時間の中で、二人が一体化しなければ勝てないのです。流れが悪かった・・そうです。でも冷静に考えれば先攻しているゲームもいくつかあり、どちらのマッチも絶対勝てないものではなかった。勝ちがやってくるポイントで簡単にミスしたりポイントを相手に与えたりした。これが簡単に負けた敗因ですね。 ゲームの中でポイントを3本続けて取るのは本当に難しい。ですから、1-2のカウントで挽回して4-2になる確率は低いのです。2-3からデュースにして同じように2本続けるのは連続で3本取ることになり、これも難しい。テニスのゲームはよほどの力の差がない限りデュースになり、どちらに転ぶか分からない確率が高いものなんです。ですから、デュースにしてもデュースアゲインまで持っていってやっと勝つ確率が1/2になったということなのです。これから言えることは先攻必須。最初の1ポイント目がいかに大切かということが分かるでしょう。レシーブでもサーブでも必ず後衛から始まります。最初の一本を取りきってしまうことが勝利への最短の法則であると私は信じています。 2011.10.3 秋の訪れは例年に比べて早く、冷気に身が縮まるのを感じます。異常気象、災害で明け暮れた今年の前半の日本列島に、寒気がこの冬は襲ってくるのではないかと、そんな予感をさせるものです。 秋のテニスシーズン真っ只中で、各地で毎週のように大会が開かれます。伝統のあるものや、新しく始めたものや様々ですが。過去、地方では全国大会という名称で中央から有名選手を呼び、その地区の意識の高揚と喚起を目的に盛んに行われていました。ソフトテニスも花形で多くのサポート企業が存在したことも事実です。現在のプロの選手のように会社に所属して簡単な仕事をした後に練習を積み、大会に出かけていく・・実業団の選手も私の若い頃は似たような所がありました。特にスポーツ関係のメーカーに勤務している人はそういう仕事が多かったように記憶しています。時代の変化と共にそのスタイルは崩れ、実業団も縮小、国体強化選手も正社員から契約社員扱いで、国体が終わると仕事も終了という何だか利用だけして使い捨ての人事が行われています。それではスポーツ選手も育たないし、そのスポーツをやることに生きがいが失われるような気がします。もちろん我々のソフトテニスはアマチュアスポーツですから、それだけやって飯を食らうといった昔のスタイルではいけないし、まかり通らないでしょう。ただ、仕事もこなし趣味の十分満喫できるテニスにも理解のある企業があってもいいのではないかと思います。全額ウェアから道具旅費宿泊費まで会社持ちという甘いことではなく、せめて大事な要件が終わればポイ捨てみたいな扱いはやめてあげて欲しいのです。 秋の大会が始まっているのですけど、私の方はピリッとしません。何だか体が重くて、というよりキレが無いのを感じます。連戦の遠征疲れやその他雑事での疲労が溜まっているんじゃないの・・」とも言われるのですけど、それも少しはあるでしょうけど、やはり技術の乏しさを痛感するのです。また、何かに理由をつけて調子のせいにするというのは心の弱さなんでしょうね。でもこうとも言えます。都合が悪いことは言い訳の理由を探してそのせいにする。決して因果関係があるのではないし根拠もないけど、そうしたほうが楽ですよね。そして気持ちを切り替えて次に進むことができる。それもひとつの考え方です。現状を打破し、次には新たな希望を持って新しい心でリセットできていればいいですね。それもひとつの方法なのでしょう。 2011.9.19 大阪府選手権が北村マリンテニスパークで開催されました。マスターズが開催されている、シニア45・成年男女を除く種目が一堂に会して行われます。一般男女は中学・高校生も参加しての戦いです。上宮高校のインターハイ2位の実力は本物でかなりのチームが上位に行っていたようです。昨年も清原君が優勝と強いのです。一般男子の奮起を期するものです。さてシニア55は我々ペアはリーグで田中・小森ペアと当たりファイナル5-7で負けてしまいました。途中で行ったり来たりの展開となったのですが、最後に相手ペアに押し切られました。崩してしまったのはやはり僕かも知れませんが・・・。谷尾・杉野/松浦・松村ペアもおちて昨年のシードは綱島・成冨ペアだけというまさに戦国時代です。ただこの力が全国ではことごとく今年は潰されてしまいました。シニア60の部ではしばらく鳴りを潜めていた吉野さんが高田選手とペアを組み、全日本3位の福谷・林ペアに④-1で勝利して優勝。圧倒的な打球力とコースの制球力、サービスの鋭さも加えれば何も言うところはありません。この2ペアのストローク、精神力の安定度は抜群で、組んでいる両前衛は慌てることなく自身のポジションと勝負に行く球の選別ができます。試合の格が高いと感じた決勝でした。次にシニア65、準決勝は木藤・東ペア対喜多村・伊藤ペア。喜多村・伊藤ペアは二人とも大きな病気をはねのけ、伊藤さんに至ってはペースメーカーを埋め込んでの復帰です。激しい試合でしたが、喜多村さんのストロークも復活し、伊藤さんの名人技のバックストロークとボレーそしてメイクマッチの超人的なフォローと素晴らしい試合でした。決勝は見れていませんが良い試合であったと確信します。 素晴らしい試合を見た後は体が震えてきます。チャレンジに休息はないのだと・・。 さて、本日はお礼と今後のお願いについて少し述べ差さて頂きます。まずはこの連休3日間にわたり、各練習クラブや大阪の試合会場で私や箕面クラブの福谷さんより「がんばれ東北」の支援ワッペンを購入いただいた皆様に厚く御礼を申し上げます。 この運動につきましては、当協会のHPのトップページに主旨を書いてございますので、一読いただければ幸いです。ただ、そもそもの発端と経緯につきましては少しお話しをお聞きいただいて、この運動は今後も継続的な活動をして参りますので、どうか長きに渡るであろうご支援を賜りたいと願っております。 事の発端は長い話しなのですがこういうことです。福岡の有志達が韓国とのソフトテニス交流をずっと続けていた関係で韓国の大統領杯大会に日本からの出場枠を確保して頂いたとのことです。シニアは40,50,60の部と日本の区切りとは少し違いますがそのクラスに団体各1チーム(3ペア編成)と個人戦への出場を認可して頂いています。一昨年私も新開さんとのペアで個人団体50/40歳の部に出場させて頂きました。韓国の連盟の皆様と地元ムンギョンでの皆様とに手厚い歓迎と連日のもてなしを頂きました。本当に感謝しております。韓国の大統領杯は日本でいう全小、全中、インターハイ、インカレ、天皇杯、皇后杯、全日本シニアにシニアの全日本都市対抗が全て同じ場所で1週間使って行われます。そんな大会によく参加を認めて頂けたものだと、福岡の方々の献身的な支援と互いの友情の結果だと私は思っています。私などが参加したのは、福岡からだけではなかなか毎年訪韓するのも難しいので参加しないかとお誘いがあったからです。当時幹事をされていた福岡の林さんから東京の新沼さんにメンバーを集めるように依頼があり、次第に関東からの参加が多くなってきたので林・新沼さんのお二人で幹事をして頂いています。名称も「日韓交流ソフトテニス愛好会」ということにして活動しています。ソフトテニス月刊誌や連盟機関紙に掲載されたのでご記憶の方もおありと存じます。韓国の代表的な大会に参加させて頂いてますので、日本の全日本シニア選手権にも韓国選手の参加をさせて頂きたいと日本連盟に2年越しで陳情を続けておりますが、未だ検討中とのことで結論は出ておりません。しかしながら、国際交流やソフトテニスの進歩のためにも是非ともこの案件は通して頂きたいのです。参加資格に全日本選手権には(6)外国選手の参加を認める という一項が載っていますが全日本シニアにはそれがありません。今まで2年間参加を認めないという理由は、この一項が無いからと言う理由からです。国際化を図り技術の交流を行い、更なるソフトテニスが進化していくためにはジュニアやその前段階のリトルを育成するシニアへの国際化の門戸を開いて頂きたいと切望するものです。 話しが脱線してすみません。その全日本シニアへの参加が実現しないので、何とか韓国のシニアの方々に日本に来て頂き、交流試合を行いたいと昨年から愛好会の中で話しが起こっていました。会場の確保が難しく、東京や大阪など大都市周辺では費用もかかり、ましてや2日間くらいを貸し切り状態で施設を貸して頂けるところなどありません。色々施設の探索を行いましたが、福島県連が施設の提供を申し出て下さいました。1日目はいわき市の屋外コート、2日目は富岡町のインドアテニス施設です。もうお分かりと思いますが、富岡町の施設は原発より10km以内にあり、今は立ち入り禁止区域です。いわき市は大地震で壊滅的な被害を受けています。お世話になった富岡町、南相馬のクラブの方々、いわき市の方々に何か支援はできないか、また甚大な被害を受けた北茨城から福島、宮城、岩手の方々に何かをできないのかと悶々とした日々を送っていました。義援金などを送ってみてもどうなっているのか、まだ分配されていないのが実情です。先日全日本シニアで福島の被災された方にお会いしました。・・家は全壊、重機も入らず連日瓦礫の片付けで疲れました・・、8月くらいからやっと少しテニスでもしてみようかという気にやっとなりました・・・と。ただ何もないのです。形ができるに3年は悠にかかるでしょう、元に戻るには生きてる間は無理かなあ・・とも仰ってられました。 代表幹事の新沼さんの出身も岩手の大船渡、被害の大きな陸前高田や気仙沼には親族も多く本当に一生懸命復興支援を考えてました。すぐに皆さんに支援のボールやウェア、靴などの提供をお願いして多くの物資を現地に運び込みました。しかしそこで彼が見たものは何にもない大地、かつての町が空き地になり打ち上げられた船、瓦礫の山・・・ソフトテニスの物資を運んだことに・・・こんなことで良いのか・自分たちがこれだけ支援物資を集めて持ってきたんだよ・・と少し意気揚々と出発したのですが、現地に着いたとたんに自分がちっぽけに思えたと・と悩んだこともあったようです。 ただ、その中で皆やはりテニスがしたいという一心で元の生活に戻りたい人もいる。そしてどんなに元の町から散らばっても子どもたちに夢をなくさないで欲しいと、夢の元を与え続けていくべきだと私たちも話し合い、目に見える支援をずっと続けていこうと決めました。大人の支援はもちろんしてあげるに越したことはないですが、まだゆとりがあります。しかし子供は日々成長します。足も体も大きくなれば、それにあった物資は一年経てばたちまちゼロになってしまいます。継続した支援を何年も続けていくことが大切だと私は感じています。 今回新沼さんがこの1コイン運動を始めました。私はこの運動をできるだけ長く続けていきたいと思います。最初は、皆さん快く協力いただけると思いますが、きっと一度で終わることが多いと思います。一度に1万円の支援をしていただくこともそれはそれで素晴らしいことですし感謝いたします。ただ支援というのは、きっとする方もされる方も負担になってはいけないのです。小さな支援の和をずっと長い間点し続けて、やがて自然にお互いが、・・元気ななってきたようだけど、そろそろいいかね・・?・・ありがとうございました、もう大丈夫です・・・といった感じで終われたら良いなと今は考えます。 私が時々皆様の元に、地震のことなど忘れた頃、・・・お願いします・・もう少しの間お願いします・・と顔を見せると思います。その時は、まだ終わっていないのだなと少しばかり無理のない程度にご協力をお願いしたいのです。皆様の優しさで、ソフトテニスを愛する子どもたちが一人でも増えて、大きくなったとき自分も誰かに何か出来ることををしてあげたいと思う子供がいたならば、私たちのこのささやかな運動も無駄ではなかったと思うのです。 皆様の友情と未来への愛情に感謝します。 ありがとうございました。m(_ _)m。 2011.9.16 全日本シニア選手権が終わり、駐車場に向かう道沿いでは秋風を強く感じました。明らかに今年も終わり一瞬ですが冷たい空気が走り抜けました。今年の全日本は自分としては万全の練習を積んだつもりでは行きました。しかし、一抹の不安を感じながら臨んだことも事実です。我々は58歳となり、このクラスでは後半組となっています。若い人達がどしどし入ってきて自分が思っているより急激な変化があるのだと実感しました。我々は栃木の田崎・鮒田ペアにファイナルで負けました。初めて出てきたペアですから若いですし、球の勢いもあります。また、先攻される展開で一度もリ-ドを奪えなかったことは初めての経験でした。勝っていてひっくり返されることは今年多く、その事には注意を払っていたつもりでしたが、予想もしない展開で何とか追いついていくのが精一杯だったのでしょうね。0-2から1-2,よし行けると思ったが1-3にされ、じっくりと粘り何とか我慢してファイナルに追いついた時点で今度は離す番だと思ったのですけど、ポイント0-4、ここも何とか我慢して3-4までしかし追いつきません。最後の一本4-6からクロスに出たがチップでゲームセット。この一本を今年一年どれだけ練習したでしょう。その前のポイントのストレートはフレーム付近だったけど入りました。ストレートなら何とか勝負に行ける。でもクロスは練習したけど不安がありました。今年はこのポイントで何試合も負けています。勝ったゲームは神戸の一試合だけ。その時を思いだしてみると、違いが今更ながらに分かります。その時はサイドのことなんか何も考えてなかったのです。今回もそれが頭から消えていれば、きっと真心で捕らえられたでしょう。でも今回は一年の練習の未熟なところが出てしまいました。前衛らしくなかった。迷っているなら行かない方がマシでした。コバちゃんならきっと何とかその一本は凌いだでしょう。ただ、やはり取りに行かなければ勝てなかったことも事実です。相手の前衛は、守りが堅くそう攻めがある方ではなかった。タイプとしてはやりにくい部類ではあったのです。それなら前衛が取らなくては!・・なのに最後の最後でヘマをしました。心が弱いです。また来年チャレンジします。55最後の年として、集大成を千葉の白子で見せたいと思います。また練習です。 2011.9.8 明日から全日本シニア選手権が三重県で開催されます。先日台風の被害で南部の方はまだ回復していないと思いますが、復興への一助にもなるでしょう。大きなイベントを開催することも大切だとは思います。 鈴鹿は交通の便からいえばあまりいいとは言えません。現に九州方面の友人達はその不便さ故に地方で開催されるときは参加を断念しています。お金もさることながら時間は貴重です。特に前期シニアはちょうど立場的にはあまり休暇を自由に取れることはないでしょう。東海道・山陽沿線ならば比較的参加しやすいといえます。持ち回りでやるのも確かに公平性や経済性を考えるといいのですが、競技となるとその参加人数の規模によって賞の価値も違ってきます。一箇所とはいわないですけど日本のいくつかのテニスコートをメイン会場として持ち回る方が良いのではないかとも思います。 また、ミックス大会が前日に行われますが、かなり真剣にやらないと勝利することはできませんし、優勝となると6-7試合を1日でこなさなければなりません。その後男子・女子の大会をこなすには相当の体力が必要です。そろそろこの大会も独立して行う時期に来ているのではないでしょうか? 2011.9.6 今年はどうしてこうも災害が多いのでしょう。台風12号の被害は尋常ではなく、今日現在で死者行方不明合わせて100名を越えました。人の命とは大切にされているものです。赤ん坊は首も座らず一瞬でも気を緩めれば折れてしまいます。歩くまでには1年以上、喋るまでには2年以上物事の判断ができるには3-5年かかり、一人で外に出せるには5-7年かかります。それから社会性を教育して実に20年以上も独り立ちするのにかかっています。そうして大切に育んできた命が、1日の雨で無に帰する、あるいは1-2分続いた津波で消えてしまう・・儚いものですね、脆いものですね・・でもそれが人なんですね。弱さを再認識します。我々は決して強くはない。その実態を認識した今、我々は何をなすべきでしょう。人が動物と異なっている点は何でしょう。それは無形のサービスを共有できるということでしょう。人の持っている物理的、精神的なパワーを融通しあえることが人たる所以です。 2011.8.21 8月も気がつけばもう終盤、暑い夏もちょっと翳りが見えます。一昨日は雨が降り、関東では22℃、大阪でも30℃を割り込みそうな勢いでした。5-6℃の気温差で人の行動が元気にもなったり、病気にもなったりします。昨日はその影響で気温が下がり、久しぶりに気持ちよくテニスをすることができました。急に体が動くようになり、ボールもまあよく見える感じです。ただ、夏の暑い時期に我慢してテニスを炎天下で続けてきたおかげで、この変化が通常の人以上に心地よく感じられるのでしょう。マラソンランナーが大会前に高地トレーニングを積んでから本番の試合に臨むようなものです。いつもそう思って8月はやり続けているのです。体力は1日にして成るものでもありません。精神力はその100倍かかります。個人というのは実に脆いものですが、どうにでもできる楽しさもあります。自分にできる芸術品は自分自身以外にはないではありませんか・・ 皆さん、9月第2週の全日本シニアに向けて練習を積んでいらっしゃることと思います。私もそれまでにローカルの大会3試合をこなし調整するつもりです。丸亀、堺、鳥取でお会いしましょう。 2011.8.2 3.11とは東日本大震災の起こった日で、すでに4ヶ月が過ぎています。あまりの被害の大きさに加え、誘発された津波とそれによって発生した原子力発電所の破壊から放射能の拡散によってなお予断を許さない状況です。放射能被害がどこまで広がりどのような悪影響が人体及ぼされ、それがどのような形で現れてくるのか、それが分からないから被災地での特に原発付近での復旧は遅れているのでしょう。 かつて広島、長崎に投下された原爆の使用量はウラン換算、広島800g、長崎1200gです。その爆弾は一瞬にして核分裂し二次的な放射性物質に変換され、日本の国土に拡散して行きました。ただ、その使用量は少なく世界中の生物に変化をもたらすほどの影響はなかったでしょう。局所的に広島や長崎にいた人たちに大きな被害と苦しみを与えました。そして彼らは自分だけでなく子孫に現れるかもしれない見えない影に憂え続けています。そして彼らの多くはすでに60~80代になり、成人付近で被災した人々は寿命を全うしています。残された子孫たちに一体何が起こるのか、起こった我々はどう対応していけばいいのか、五里霧中のところなのです。 8月になると私はいつも父親のことを思います。私の父は昭和20年8月6日広島市内にいました。年齢20歳、入隊3日目のことでした。前日広島市内である会議に出かけてきたのですが、朝8時頃、突然鳴った空襲警報で一斉に地面に伏せたそうです。鳴り響くサイレンを聞きながら地面に伏せていると突然あたりが真っ白になったと。 。父が目覚めたのはそれから5日後、おびただしい死体と共に並べられていたとのことです。どういう理由かわかりませんが、発見されたとき彼の体温は低く、しかも脈拍は40くらいしかなかったそうです。死体と共に並べられてはいましたが、医師と看護師さんはきっとこの人は生き返るからと言って処理体とは違う場所に置かれていたのです。目を覚まして何を思ったことでしょう。彼は多くは語りませんでした。一度だけです、僕がこの話を聞いたのは、8月にテレビを見ていて当時の映像が流れていたとき、急にポツリと話し始めました。目が覚めて、すぐに死体の処理にあたったこと、広島の川という川に人々は飛び込み、やけどで苦しみながら死んでいったのです。その死体が幾重にも並んで川をせき止め8月の太陽が容赦なく破壊し続けます。引き上げては火葬に、その繰り返しを幾日も幾日もやったそうです。・・地獄じゃ・・った。・・あれより非道いものを見たことがない・・・けど人間は慣れる・・なんとも思わなくなる・・と。それから、岡山の実家に向かい汽車にのり帰ったようです。しかし不思議なことが有ります。彼が被爆したのは爆心から800m、普通なら影も形もないところです。一緒に行進していた数十人の仲間は一人として影も形もないそうです。彼の体にはケロイド一つなく体の機能も原爆が原因での体調不良はなく、障害もありませんでした。数年間にわたり白血球が多く、それが唯一違っていたところでしょうか。ただ60歳を超えた頃には普通の人と変わらないくらいの値に戻っていました。私は子供の時自分が健康であることで何の不安を感じることはありませんでしたが、意識を始めたのは20歳の頃でしょうか?将来の仕事や結婚やいろいろ考えると、この自分の状況は避けて通ることのできないものだと思えました。大学3年はちょうど研究室を決める時期です。私の頃の大学は今から36-7年前ですが、大学院修士は化学系で1/4くらいの学生が進学しその内1~2名が博士課程に進みました。群馬・岡山大学は独自の博士課程がなく、東工大・つくば・東北/大阪市大・京大などへ博士号を取るため進学するのが普通でした。私は自分の進路を決めかねていました。通常の学生を終えて就職しようか、それとももう少し学究の道を進んでみようかと。やっと4年生になり研究室での研究生活が始まります。そのテーマを選び研究室を選ぶことは一生の岐路であるとも先輩諸氏や先生方からも、物の本からも繰り返し言われて来たことでした。ただ僕の中ではそれとは別に、どうしても自分の体への不安が払拭できていなかったのです。今のまま何も考えないでいることはできない。そう思うと僕は広島大学を訪ねてみようと思い立ちました。広島大学なら放射能に関わる人体への影響や、また研究も進んでいるだろうし、自分がこれから将来にわたり関わる化学の世界での示唆が得られるかもしれないと思ったのです。 当時、私の高校時代の友人で濱田くんという気骨のある奴がいました。私の通っていたのは津山の工業高校でしたが、古い大正か昭和の頃の学生気質が残っていたように思います。それがいい事ばかりではありません。現に私もその古さにある意味でついていけず落ち込んだ時期もあり、やめようかとさえ思ったこともあるのです。今ではそれも自分の人生の一こまなのだと思いますが、当時は必死でした。濱田くんも私のうちの近くで中学も違いましたが、農家の生まれ育ちです。長男で妹がいて・・なんてところも似ていましたが、彼は電気私は化学でした。大学に行きたいと思っても進学するのはなかなか大変です。授業も専門が大部分、更に国立大学は殆ど5教科ですが、その授業も受験のためのものではありません。彼や数名の進学希望の仲間と小さな連帯意識を持ちながら勉強を続けたものです。私は現役で何とか大学に入りましたが、彼は浪人して広島大学に合格しました。なかなか広島大学に進学するのは大変です。新聞配達をして仕送りゼロでやっていた頑張り屋でもありました。その彼は大学に入り、ベ平連に入ったようです。広島は岩国にも近く、ベトナム戦争の終盤でもあり戦争の矛盾が日本でもアメリカでも起こり、若者の反発は日に日に増し爆発しかけていました。彼も正義感と情熱の激しい男でしたし、おそらく社会正義と自分の理想との矛盾を理解しようと努め、その運動に加わっていったものと思われます。 彼に連絡を取り、広大の先生を紹介してもらうよう頼んだと思います。彼は大学で放射能の研究をしている先生に引きあわせてくれました。残念なことにその研究室も先生の名前も忘れてしまいました。彼は熱心に私の話をしんぼう強く聞いてくれましたが、今のとこと被爆2世への放射能の影響は残念ながらわからないこと、自分の大学の中で化学の進歩を推し進めることが、長い目で見て貢献をすることになるのではないか・・などと話して頂きました。私は正直落胆しました。戦後25年以上も経ち、そういった研究や統計的データも揃っているのではないかと盲信していた自分が情けなかったのです。あまりにも子供であまりにも世の中を知らなかったのかもしれません。被爆したことさえも隠して生きている人もいる。それは差別につながる事柄でもあるかもしれないのです。現に私も自分で自分がわからない不安からこういった行動を起こしています。結婚して子孫を残すことに不安を抱くのは当然ですし、良い種を残して行きたいというのは当然の生物の本能です。だからこそ人は、良い異性を選ぶのです。そんなのがなければ誰でもいいではないですか?そうではないでしょう。健康で頭が良くて容姿も良くて性格も良くて運も良くて・・そういった異性を求めるのです。ハンディキャップを負いたくはないという人も大勢います。また、そこでこの世の中で当たり前だとか、教科書に載っていることは正しいとか、もう色んな事はわかりすぎるほどわかっていて、世の中には知るべきことは残されてはいないんだ・・・などという幻想が改めて空虚なものに思えてきました。大学に行ってわかったことは、この世の中で分かっていることはほんの少ししか無い、いや皆無といっていい・・ということがわかったことでしょうか? 濱田くんはその後ずっとその運動をしていましたが、やがてベトナム戦争も終わります。25歳前に彼と一度会いました。何か全てが僕達は別れてしまったような印象を受けました。さっぱりとした口調で彼は、これからアメリカに行くのだ・と言いました。当時ヒッピーの仲間たちが集まり理想のコロニーを作りそこで生活するのだと。そして彼とは二度と会っていません。何をしているのか、どこにいるのかもわかりませんが、何をするにも一生懸命で一途に成し遂げるまでやる実行力、行動力が好きだったのですけど。 僕は大学に戻り、生物有機化学をやっている先生のところの門をたたきました。当時の群馬大学の応用化学科の教授連は凄いメンバーだったと思います。ラジカル反応の右田教授、助教授に安藤亘先生;後に筑波大学の教授になられました。、助手に小杉先生、最近はやりの昨年ノーベル賞をとったクロスカップリングの先駆者ですね。先生方がもらってもいいと思います。相模中研の所長兼任の永井先生、シリコンの大家です。若くしてガンで他界されました、残念です。有機の3本柱は私の先生の太垣先生、講師に矢野先生、助手栄喜先生とバイオミメティックを引っ張ってきた方々です。無機は地球化学の赤岩先生、分析は昔の教育者といった感じの松田先生、それ以外にも群大の化学系の充実していたことは今では考えられないくらいです。私たちは出来の悪い学生でした。しかし先生方は、一人前に扱ってくれます。先生と学生ではありません。研究テーマについて実験結果のゼミでは週1回、徹夜で討議が行われます。先生方は学生の出した結果を自分のことのように議論します。もちろん実験をした学生が主役ですから、議論の中心は演者です。最初の数ヶ月は先生方や院生の先輩方が何を言っているのか全くわかりません。4回生は与えられたテーマを分かったつもりでこなしてはいますが、その奥にある真実は何も解ってはいないのです。僕は、しかしこの人達の情熱はいったいどこから来るのだろう、何がそんなに楽しいのか?どうしてそんなに熱くなれるのだろう・・と思っている内、次第に真実を我々は突き止めようと挑戦しているのだということに気づきはじめました。そうです、広島に行ってからも、何も解決されずモヤモヤとして、でも何かをしなくてはと自分の心と体は叫びつづけます。そうして飛び込んだこの世界で、今までとは全く違う学問に出会ったのでした。講義をいくら聴いても、難しい方程式を解いても、黒板の上で化学反応式がすらすらと描けるようになっても、大切なものは、そんなものではなかった・ということに気づいたのです。自然科学は全くある意味では簡単です。自然はもっとも必要とされる最小のエネルギーで最大効率で進んでいくのです。それに逆らって逆向きに進ませるためには莫大なエネルギーをかけてやらなければなりません。化学とはその最たるものです。人類は地球上にあるありとあらゆるものを組み替えることができるようになっています。その仕組みを解き明かし、再構築することで豊かな未来を手に入れようとするのです。大学が、社会からかけ離れた研究ばかりをやっているのは意味がないという風潮です。国立大学も法人化され、社会貢献の大なる研究がもてはやされる時代です。しかし本当にそれでいいのでしょうか?私はそうは思いません。自然科学の真実、これこそは真実だという小さな発見の積み重ねが今の時代を築き、その中では過ちもあり、それを修正する力も人類は身につけてきました。今の時代は、過去の先人の総決算の上に成り立っているのです。一人の天才のみが創り上げてきたものではありません。知を創造する機関を残しておかなければ、やがては人類は滅びてしまうでしょう。 私は大の大人が小さなフラスコの中で起こっている現象のことでこんなにも熱く自分の意見を激しくぶつけ合い、そのことを必死になって理解しようと関係する本を読み、またその事実から果てしなく議論が続き、まるで地の底から湧き上がってくるようなエネルギーを感じたものです。これこそが私が求めていたものでした。中学から高校進学をするとき、自然科学をやって真実を知りたいと、工業化学科を選びました。しかしそこは技術者を養成する学校で真実を求めるための学問をするところではなかった・・そこで大学へ。入学すると、学生は自分の希望校に入学できずやむなくこの大学に入ったんだ・・などと平気でいい、チャンスがあればもっと良い大学に行きたいなどといいます。良い大学って何だろう?この大学は私は高校の時から昔は桐生高専で関東に2つしかなかった化学の高専で伝統もあるいい学校だと思って入学しましたが、東大や東工大や東北、千葉、新潟などに行けなかったのでここに来たと。ではその大学がいいというのは何故??結局偏差値だけなんでしょうか?少し興ざめもしていました。大学の3回生までの講義はいくら受けても高校よりはマシですが、少し高度な記憶にすぎません。あのまま卒業していたら何にもならなかったのでしょう。私は幸運だったと思います。同時に今の大学生に欠けているものも見えていますが。 私は濱田君とは全く違うところに生き方を見つけました。彼は私を体制派というでしょうか?人には役割もあります。どこに自分を賭けられるかを見いだすのもその一つでしょう。彼が世の中を作り替えることに生き甲斐を感じていたのかどうか私には解りません。でもはっきりと私と彼の生きる道も考え方も違うのだと解ります。しかしそれでいいのでしょう。彼も私も自分の居場所を見つけたのですから。 彼はいいました。何かをやろうとしたら、引きずっているものを捨てなければ何も得られないと。おそらく彼は長男であること、家を顧みないこと、両親を捨てていくこと、日本を捨てていくこと、などを言ったのだと思います。私にはそこまでできませんでした。中途半端かも知れません、でもそれも仕方のないことです。 あれから何年も時が経ちました。相変わらず彼の消息は私には解りません。被爆2世の会が活動を少しずつ起こしています。しかしやっと、各都道府県で年1回の被爆2世に対する健康診断が実施されるようになり数年が経ちました。今年は私も受けてみようかと思います。放射能の影響は我々とその子孫達の問題だとずっと考えてきました。しかし、この3.11の地震の後の原発事故により今なお真実を隠し、情報を正確に伝えない国と東電、原子力保安院、その他知事や国会議員ぐるみでの隠蔽。これから何年にもわたり放射能による人体への影響、世代を超えての遺伝影響などを我々は共有しなければならないのです。それこそが今私のできる人類への最大貢献かも知れません。好きこのんでモルモットとして生まれてきたわけではありません。でも他人なんかどうでも良いとは私にはどうしても思えません。日本人のみならず、チェルノブイリもスリーマイルもビキニ島の水爆での被爆もその他いくつもの原子力での事故があります。我々はそのデータをできるだけ提供して人類の未来への遺産として伝えなければなりません。 2011.7.25-2 先週末、千葉の白子で東日本選手権が開催されました。震災の影響で場所を変えての開催のため1週間遅れました。そのおかげで吹田のスーパーシニアには関東の選手も参加していただけたのです。震災は多くの人々に影響をもたらし、現地では今も尚苦しんでいます。しかし日本のTOPはそんなことには無関心のように見えます。日本も大統領制を導入したらどうなんだろうか・と本気で考えたりもします。ちょっと前にも言いましたが、全く次第にそのような気持ちになってきます。 さて、私の親友である岡山の高宮氏が他界して7年が過ぎました。7月13日のことでした。暑い暑い日でした。その年の5月21日に父を亡くしていた私はその年本当に落ち込みました。大切なものが無くなってゆく悲しみはどんなに言い表そうとしても表現できるものではありません。何をすればいいのか、どうすればいいのか?当時何を考えていたのかは今となっては思い出すことはできません。高宮と追っかけていたものを急に断ち切られ自分が求めるものはもう追っかけられないんじゃないのか?と思ったことは事実ですが、そんな時私の回りにはいい先輩や同僚後輩達がいました。テニスに没頭しました、高宮に約束した墓前にいい報告ができるようにと。思えばそれだけで私はテニスをやってきたのだと思います。幸運にも、小早川さんと全日本を、新開さんと「安達・直原ペアに勝って」西日本を、という2つの目標をクリアできました。ここまではお二人の力を借りて彼のために捧げたものだと思っています。 しかし、昨年くらいからそうではなくて今組んでいる自分たちペアのためにもう一度頑張りたいと思うようになりました。49日を過ぎたとき、私は彼のことも忘れて暮らそう、新しい世界にいく彼を祝ってやろう、といい決意したのです・・・と思っていました。しかし、ずっと彼を弔ってきたのです。簡単に忘れることはできませんでした。ただ、今はちょっと違います。今はやはり私は生きていて、一緒にゴールまで向かってくれるパートナーがいます。その彼らこそ今大切にしなければいけない人達です。その人達ともう一度タイトルが取れるよう努力しますし、たとえ取れなくてもずっと努力し続けたということに偽りたくないのです。 私は生きていて、私が行き続ける限り高宮は共に生きるのです。人は死ぬかも知れませんが、記憶はおそらく死なないでしょう。生きれば生きるほどいろんなものを引きずることでしょう。それでも、自分が死に体にはなってはいけません。 私のようにテニスのパートナーや父がが亡くなる場合もありますし、人生のパートナーや最愛の人が亡くなる場合もあるでしょう。失ってみるとその大切さが分かります。しかし何かを、いつかを区切りにして生きた姿で日常に戻っていかなければ、日常を創り上げていかなければ過去に連綿と続く屍は浮かばれません。 ブログに7/13は誓いを新たにする日だと書きました。改めて自分に言い聞かせようと思います。 2011.7.25 7/17は四日市ドームでYonexカップが開催されました。愛知の大川さんから昨年ドームでの試合に参加しないかと誘われ、年末に中村選手と参加しました。その時はmizunoカップでした。聞けばドームの試合は年3回とのこと。ドームの試合は雨が降っても無関係というのがいいですね。この日は台風がやってきていて大阪では雨が降り練習は中止が多かったようです。尤も、橿原クラブではその雨の中4-5名でずっと最後まで練習していたようです。四日市ドームのあるところは台風から遠く離れているのですがとても風が強く、大阪などでは影響は殆どなかったのですけど、厳しく太平洋の影響を受ける土地柄なのだと思えるものでした。コートが男性では6面、その上一般からシニア5歳刻みで各クラスあるので、55のクラスは10ペアでしたが、時間がかなりかかりました。朝9時から決勝リーグが終わったのが18時過ぎと少しウンザリです。尤も昨年末のMIZUNOカップは終了が20時半ととんでもない時間配分でした。遠方参加がある場合はもう少しご配慮いただきたいものです。私は、こうしていろんな所に試合に出かけます。三重県の試合は東海地区の選手が多く普段手合わせ頂けない人との試合ができます。普段やっている人ばかりだと、自分のスタイルももちろん知られますが、ある意味では癖を知っている人が勝ちといったところもあるのです。しかし、知らないところにいけばそうは行かない。自分の持っているものを全てだし、それでやっと勝つことができます。お互いが自分を表現できると同時に、自分の弱点をはっきり分かることができるのです。相手は自分の力も何も分からないのですからその時最も弱いところと判断したところを攻めてきます。逆に相手の弱点をすぐ見ぬいて徹底的に攻撃する厳しさも身につきます。当たり前のことをちゃんと出来るかどうかが外での試合には不可欠です。初めて対戦する相手には不安ですがワクワクもするものです。 今回も3チームのリーグでした。初戦は全く知らない人でこういった人が怖いのです。案の定、2ゲームを自滅で落とし0-2。調子が悪ければビビってしまい勝ち目のない展開です。しかしここまでは最近ではよくあること。最近の調子ではあまり心配することもありません。次のゲームからは立ち直って来ました。ただ4-2で勝たなくてはいけないところを3-3にしてしまったのは頂けなかったですね。もっと厳しさが必要です。次は服部・中西ペア。服部さんは昨年から外の試合に出始めています。今年は西日本8でした。成果が出始めています。自信からかボールへの勢いが有ります。縦面なのでそう威圧感はありませんが、思い切ってくると早いですし、遠くに逃げられもします。ただ、新開さんはこういった相手には最初が肝心と徹底的に行きます。中西さんもいい前衛ですが、最近の新開氏のあたりがまともに出るとちょっと取れないでしょう。決勝リーグは3組で相互に審判して進めることになりました。最初は鈴木・大川ペア。鈴木さんはオーソドックスな後衛ですがややドライブが甘く、外にボールが逃げ気味に来るようです。ドライブ気味の順回転でないので後衛は打ちにくいかもしれませんね。大川さんは攻撃的なところのある前衛だと思います。単に返してくるだけではありません。ここ2-3回戦ったので大体のパターンは分かってきました。心していきます。新開さんも最初ちょっと打ちづらそうでしたが、慣れてくると押し気味に進みました。4-1。次は森中・福井ペアです。森中さんは昨年2試合組みました。今組んでいる二人の後衛さんとの最も大きな違いは勝ち負けに対するこだわりとか執念とか、要するに勝ちたいんだ!という強い意志が不足していると感じます。ポイントは絶対押しこむんだという意志をボールに乗せるか単純に打って行くのかでは大きな差があります。そんなに速くないボールでも、重くズシリとくる重量感とパンと当たれば返るボールとに何の差があるのかは分かりませんが、事実として感じます。勢いで勝つ人もいますが、勝ち続けるのは難しい。また試合中にはコロコロと変わる心理がどれだけ深く安定していて、浮ついたときに軌道修正できるか・・というのが大切な事です。森中さんは私の好きなタイプの後衛で今までも三重ではTOP選手で、大きな大会に行っても目立つ、良い後衛です。技術は素晴らしいのにもう一つ成績が出ないのはきっとそのあたりなのではないでしょうか?勿体ないと思います。でもきっと大成する人だと信じています。前衛の福井さんを初めて見たのは何年か前の東大阪の超壮年。ここで優勝をさらっていきました。大柄で勘が鋭くリーチのある前衛だなと脅威を感じていました。後衛から見るとずっと組んでいきたい前衛でしょう。今回はレシーブの不安定さが目立ちました。もっとコンパクトにボールを見てピシッと打てば良いのだと思いますが。今は悩んでるのかなという印象です。しかしこのペアは自信を持てば凄く可能性を感じるペアです。さて今まで組んだ多くの後衛さんでやたらに強い意志と感情コントロールできた強い心を持っていた人は4人です。でも完全ではありません。彼らも人の子です。ムードに押され、自分に押され負けることも多かったです。しかし、どんな逆境でも撥ねつけようと語りかけてきます。澤選手が(なでしこ)言っていました。苦しい時は私の背中を見なさいと。あの歳でそれが言えるのは凄いことです。どんなに口で言ってもひとつの気迫のこもったプレーには勝てません。そして2時間近くを背中で語りかけながらプレーし続けるのは凄いことです。テニスもそうではありませんんか?確かにプレーの凄さを見て唸ることはあります。でもひたすらにボールを追い、すべての力をコートに出し、意志と技術が十分に発揮されているのを見たとき我々はナイスゲームだと思い、プレーヤーとしてはその緊張感が至福の時間に思え、芸術を楽しむことができる。1トーナメントに1試合あるかどうかのその試合を僕達は見たり、出来ればやりたいと思いプレーし続けていると言っても過言ではありません。優勝は付録といえば言い過ぎですけれども、その最高の試合のできる相手を求めて我々は勝ち上がっていると思っています。 2011.7.20 7/16~7/19の三連休はテニス漬けの日々でした。少し怠いなという感じが残っています。体もちょっと労ってやらなければいけないのかも知れませんね。 7/16は東京から新沼氏が来阪し午前の橿原の練習に参加しました。今週も暑かったのですが先週ほどの蒸し暑さや体内に熱気がこもるほどのものではありません。先週帰る途中におこした熱中症気味の症状は出そうにありませんでした。体も慣れてくるのかも知れませんね。まあまあの感じで練習を終え、明日の試合に備えます。久しぶりに中村・新沼氏と昼食へ。話題は明日の吹田の大会よりも、西日本シニアの内容についてでした。やはり55は厳しかったこと、良い試合が多かったこと、篠辺・松村はダントツに強かったこと、どう対処していけばいいかなど・・新沼氏には少し見えていないだけに話題としては苦しい内容だったかも知れません。 7/17は吹田クラブのスーパーシニアカップ。毎年西日本各地より名選手たちが集います。それだけの人が集まる大会は吹田クラブの力の強さ、今まで培ってきた先人の力にほかならないと思います。今年は東日本からも多数参加され、全国より名選手が結集した感じでした。リーグ戦が1回戦からもはや各地区の決勝の様相です。私のブロックには、木本・金澤、松浦・松村、小澤・脇山ペアと小早川・高原です。木本ペアは3年前の55歳全日本チャンプ。松浦ペアは昨年全日本8,脇山さんも4年前の50歳の部8と全て強豪です。少しでも油断をすると勝てない相手ばかりで、他の4ブロックも全てこんな感じでした。初戦、小澤・脇山ペア。大柄でビシビシ打ってこられます。なんとなくミスも重なりいきなり2ゲーム連取されます。ここからもう開き直るということで攻めていくことに。逆に相手は大人しくなり逆転、4ゲーム取り勝利です。しかし、ズルズルと行く可能性のある試合でした。2試合目は木本・金澤ぺあ。これは非常に珍しいことなのですが、4人がサウスポーという極めてまれな試合でした。今まで3人左は練習中でもありましたが、4人は初めてです。しかも2人の後衛は負けず劣らずの最高峰後衛です。前衛は金澤さんも私も若干中衛気味のポジションから勝負を仕掛けるタイプです。ローボレーの上手さは今回やってみてよく分かりました。本当にミスがでないのです。力も強くボレーに切れがあります。ゲームカウント2-1から4ゲーム目を長く続いたのですがとり3-1。粘り勝ちできたので、よし押しきれるぞと私は思ったのですけど、ここから木本さんのしぶとさが出ます。打っても打っても返ってくる。よし決まったと思ったボレーを拾われる。普通の人なら絶対に取れないものが2本はありました。それから頭越しのロブをされたのですが、よし絶対アウトという軌道のボールがベースラインから1mくらい内側にに落ちるのです。コバちゃんもアウトと思っているので追っかけていずノータッチ。これも2本くらい有りました。ファイナルに追いつかれましたが一進一退。5-5でコバちゃんのレシーブ。木本さんのファーストがバックを狙いすぎてフォールト。セカンドはもう絶対アタックです。僕もフォロー体制満々です。そのレシーブはコバちゃんも渾身の思いで打ちました。しかし非情にも白帯でアウト。5-6マッチ。レシーブを返し、長くラリーが続きます。センターへ注ロブ気味にコバちゃんが打ちました。ひょっとしたら打ってくるかな・と思った瞬間。今までとは全く違った速度で逆クロスへ打たれゲームセット。もっと割りきらなければいけませんでした。木本ペアは1試合目で松浦ペアとやはりファイナルで逆転勝ち。2勝をあげています。我々は自力勝ち抜けはなくなりましたが、松浦ペアに勝って望みを繋ぎたいと思います。勝手三つ巴になれば+2で我々は有利です。3戦目の松浦ペアはもう何度もやっている相手です。今の所歩がありますが、勝負事はいつ反対になるかわかりません。勝てる時は絶対に相手に隙を与えないのが勝負の鉄則です。いけるぞと思わせることが最もいけないことなのです。この日の松浦選手は上げるよりも打ってきました。短い球は前衛の側を通そうとします。いつもよりセンター中心に攻めてきたと思います。ですがそうとわかればそこを押さえれば勝ちでしょう。最も得意なところ、最も攻めようとしているところを抑えることが勝利の秘訣でもあります。対応できるまで時間がかかりましたが2で勝利。同時に行われていた小澤・木本戦は4-2で木本ペア。三つ巴の夢は潰えて観戦に回ることになりました。今日の台風の目は田中・小森ペア。リーグ内の谷尾・杉野、佐藤・仁方越、緒方・荒川ぺあを押しのけて上がってきました。今年の出来ではとても無理だろうと思っていたのですが、ボールが速く他後衛を圧倒しています。3ペアをおろし決勝トーナメントへ。谷尾・杉野vs緒方・荒川ペアの最終戦がよもや消化試合になろうとはだれもおもわなかったでしょう。西日本シニアでのあの名勝負は今も目に焼き付いています。その再現は、いい試合でしたが、やはりあの時とは違います。谷尾ペアの勝利でした。第一シードは新開・栗尾ペア。昨年は圧倒的な強さで勝ちました。今年はリーグ内一回戦の吉野・中辻ペアを下ろし、栗尾選手の苦手とする、原田・前川ペアを下ろし、黒田・片山ペアに勝ち危なげ無く決勝トーナメントに上がってきましたが、田中・小森ぺあに4-0の負け。ガンガン打たれて為す術もなくといったところでしょうか?この試合、見に行こうとしたら終わっていた・というくらい早かったです。田中・小森ペアは続く木本・金澤ペアもファイナルで下ろし決勝へ。最初田中さんの打球に打ちまくられていましたが、木本さんが持ち前のスローペースで追いつき、これは木本マジックに入ったので田中さんも危ないなと思いましたが、ファイナル、田中さんがロブを使い、チャンスは打って行く展開で逃げ切りました。チェンジオブペースができたことが勝因でしょう。反対の山からは、堤下・高田ペアと中村・鶴岡ペアが箱を抜け出し準決勝へ。堤下ペアは高橋・真野、土本・阿部、新沼・東各ペアを全てファイナルで下ろしトーナメントへ。中村・鶴岡ペアはリーグ内、客坂・大川ペア、森脇・松本ペアをファイナルで岩本・榎本ペアにかち3勝で抜け。客坂ペアとも森脇ペアともどうなるかわからない展開でした。堤下、中村戦はお互いが強打のオーソドックスタイプです。堤下選手はここまでよく打って勝ち上がってきました。いつもより一本だけ最後が厳しく。そこが勝利につながっていると思います。中村選手とも一進一退。ファイナルとなりました。この日は鶴岡選手の調子がよく、またいい所でラッキーポイントなどもあり、そこが違いとなって現れたと思います。4-3で中村ペア勝利。 決勝は田中・小森ペアと中村・鶴岡ペア。これも強打ペアの対戦です。中盤まではお互いの力が拮抗して互角かと思われました。しかしここで鶴岡選手の好調さが勝利へと導きました。後半は中村選手が打ち込み鶴岡選手がコースを抑えるといった強い時のパターンでねじ伏せたという結果となりました。鶴岡選手のノーミスのプレーが光っていました。その影には中村選手の安定したストロークがいぶし銀のように静かにどっしりと輝いていました。 2011.7.12 勝負事はやはりやってみないと分かりません。お互いの相性というか、好き嫌いもあるでしょうが、無意識のプレーが一致していることが相性がいい、相手にとっては相性が悪いということなのです。思えば今シーズンはその弱点を克服するために色々もがいたと言える前半戦でした。トーナメントはそして組み合わせの運がないと上位まで行くのは難しいです。今回も谷尾・杉野ペアが我々のトーナメント1回戦で当たる可能性が有りました。私は谷尾・杉野ペアとは何度もやってますが勝率は40%くらいです。特にここ数年は小早川ペアでは封じ込められ、新開ペアでは自滅したりで負けが多いです。何かこのペアとやるといつもアクシデントがあり集中できないのも一因です。プログラムを見てまず2日目の初戦がヤマと思っていました。緒方ペアには失礼しました。緒方ペアには相性が良いのですが、そんな時ほど怖こともよくわかっています。どちらが上がってきても集中していかなければ勝てない相手です。緒方ペアということで、今年の戦い方を変えないように集中して臨みました。谷尾・杉野ペア戦と違い勢いがやや衰えています。これはチャンスです。逃げれば追うの鉄則で攻めて攻めて攻め抜きました。次は八代醍・岩切ペア、3年前準決勝で戦った相手です。今年の近畿大会も2位と勝ってきています。左利き特有のボールに惑わされないよう割りきって進めました。一本目のサイドパッシングが止まったことで、何だか来づらくなったのか避けてばかりでした。新開選手のボール回しもキレが良く④-1で勝利です。4決めは熊本の沼田・白石ペア。昨年は北九州と全日本で負けたのですがなんとなくという感じでした。きっちりと押し切っていけば勝てるはずとの信念を持ってがっちりと固めていきました、が、ゲームカウント3-1,3-2マッチポイントでストレートロブを読んで下がり決まったと思った瞬間気が緩んだのでしょうか・・・ミス。それから、なんとなくズルズルと2ゲーム取れら次も0-3、ここから沼田ペアにミスがでて2-3。レシーブ出てくるかな、どうかなと思ったところポーチに来ました。少し高めに早いレシーブを打ちました。ヨシッと白石選手がガッツポーズ。白線審判真ん前のライン微妙なところです。審判はじっくり見て、アウトとコール。白石選手は不服そうでしたが受け入れられずジュース。気落ちしたのか、最後はストレートを沼田氏がネット。これも怖い試合でした。お互いが勝ちを意識した瞬間に勝利が遠のいて行きました。ファイナルになっていれば本当に分からなかったでしょう。マッチポイントのスマッシュを決めていれば、④-0で、ああやっぱり勝てないんだと相手に思わせることができたのですけど、そこがまだ本当の強者ではない証明みたいなもんですね。 準決勝は篠邉・松村ペア。一緒に泊まり酒も食事もしている仲間同士です。毎回、やるところまでは上がろうと言ってますが、なかなかです。お互い負けたり山が反対だったりで戦うのは2回目ですね。前回は2-2から突き放されました。今回はそれ以上にと気合を入れて行ったのですが、篠邉選手がいつになく本気モードで最初からグイグイ飛ばして来ます。殆ど私の近くに来ることはありません。大きく構えられるとどうしても構えてしまうので少し遠くても非常に遠く感じてしまいますし、踏み込んで打たれるのでもう防戦一方です。結局ポイントが取れるのは松村さんのサービス、こちらの有効なサーブが入ったときに限られます。篠邉選手のサーブ・レシーブの時は殆どポイントが取れず、5ポイントという屈辱的な惨敗でした。新開選手ともに気合は入っていたのですが、心身のバランスは悪くもう一つ体が動いていませんでした。対戦相手の方々には失礼ですが、やはりこのペアは格段に実力の差があると感じました。我々が150%の力をほぼミスなく出せて、やっと相手になるくらいなのではないかと思われます。 かえって冷静に改めて分析すると、道はまだまだ遠いのだとつくづく感じます。それだけにもっとtennisに精進しなければいけないのだとファイトも意欲も沸き上がってきます。3度目は是非とも試合になりたいものだと思っています。 この一球は絶対無二の一球なり。されば身心を挙げて一打すべし。この一球一打に技を磨き体力を鍛え精神力を養うべきなり。この一打に今の自己を発揮すべし。これを庭球する心という。 tennisをするものは一度はこの言葉の冒頭を聞いたことがあると思います。また同じような意味では一期一会というものもありますし、行く川の流れは絶えずして・・云々というのもあります。 我々は時間軸の中で正方向にのみ物理的には動いていきます。決して戻ることはありません。だからこそその一瞬が非常に儚くもあり大切にしなければならないと感じるようになるのでしょう。いつまでも永遠に続くと子供の頃は何も考えずに暮らしてきましたが、還暦が近くなる歳になると大体のことは判別できるようになります。そして、今や時間に限りがあるということを実感します。はっきりいえば自分の時間が無くなっていっているのです。前が膨らんでいる過去よりも先は見えないけど終わりがあると感じている今の方が切なさも儚さも脆さも強烈に感じてしまいます。何気なく読んでいた本も何気なく見ていた映画もそういった目で見ると又違うものですね。ただ、私には登っていく山の大きさが雲を通り越した途端に見えないくらいの高い山の頂が目の前に現れたようなものです。弱音を吐いてはいられません。心身を鍛えなくてはなりません。 明日は7/13です。また新たな挑戦を心に誓う日なのです。 2011.7.8 時間は早く経ちます。少し油断をしていたら、もう3日も過ぎました。西日本シニアを振り返ってみます。今回は春先から、負けないtennisをしようと思いまた少しアクティブに動いてみるように心がけてきました。後衛も年を重ねます。長く組んでいると今までのように全部任せておくだけでは勝てなくなってきていると昨年くらいから感じていました。足も腰も肩も衰えてきますから、少しカバーしていく気持ちとプレーが必要でしょう。思っていることがすぐできるならいつでも勝てるでしょうし、そんなの出来れば誰でもチャンピオンですものね。春先から普段は追っかけないポイントでのボールを追っかけたりして何試合かは負けました。後衛とも少しギクシャクした感じになったことも有ります。でもね、試合でないと練習できないこともあるのです。100の練習試合を重ねても本当の試合の緊張感の中でしか試せないこともたくさんあるのです。全部の試合が等しく勝ちたいのであれば練習試合のレベルからそこまでモチベーションを上げていかねばなりません。しかしやっぱりできません。僕は試合と練習では緊張感を等しくできるほど達観してはいないのです。ですから多くの試合に出ます。試合でその感覚を養い最も緊張した場面でツイストを100%成功させられるか、アタックを100%打てるか、逆に相手のレシーブアタックを完全に止めることができるか・・などはその場面でないと味わえないですよね。緊張して打つ方のボールが思ったより遅かったり、全く予測と反対に来たとき反射的に対応できるかなんてことは1000の練習でも体験できないことですからね。とにかくそんなことを今年の春はやって来たつもりです。そのせいか分かりませんがなかなか逆に決勝で思い切って行けず、勝てないことが多かったです。負けないぞと思いコートに入るのですが、なぜだか負けてしまったということが多かったのです。決勝でのチャレンジャー精神が不足していたのかもしれません。 5月頃はなんとなく重苦しい感じでした。でも7月に向けて調子を上げていくつもりで焦らず調整して良かったのかもしれません。6月の終わりは阿南クラブに行き鵜尾さん始め倶楽部の皆さんにはお世話になりました。磯野・谷本、紅露・森/吉田ペアとの練習試合は練習試合でしたが、初めてであり、普段できないクラスの方々なので良い緊張を持って試合ができました。なんとなくモヤモヤした感じがフゥっと無くなったのか感じられました。阿南倶楽部の皆さんには本当に感謝しております。今回、紅露・森/鵜尾さんが所要のため欠場でした。残念なことです。 西日本シニア男子55は多くの強敵がいます。私のゾーンは非常にきつい感じでした。第4シードのところは確かに一番激戦ページなのですがそれでも異常なくらいと感じるほどです。まア、尤も私はあまりプログラムは見ない方なので途中まであま気にしていませんでしたが。ただリーグ抜けると谷尾・杉野ペアではないかと予想していました。ここはヤマだなと感じずっと対策を考えていたのです、が、谷尾・杉野のブロックには緒方・荒川ペア、高知のペアがいます。これはなかなか厳しいいブロックだと思っていました。それでも1勝同士でこの2ペアがぶつかり、ゲームカウント2-2。最初は谷尾ペア優勢でしたが、じわりと緒方ペアがくっつきます。2-2の2-2で杉野選手がクロスポーチ。緒方さんが中ロブ気味に変えました。あっ、決まったと思った瞬間、杉野選手が思い切りラケットを振ったようでバックネットまで飛んでいく大アウト。見ていた全員が、・・えっ・・と思ったでしょう。堅実なプレーで有名な杉野選手のこのボレーは誰もが一生忘れないでしょう。それほど流れを決定づける1本でもありました。緒方さんのボールが厳しくキレが出てきました。荒川選手も後半ノーミスです。後半力が入るとミスをしてもらってリードを広げていくことができるのですが、この日はネットプレー、スマッシュ、レシーブともに完璧でした。結局そのまま④-2で緒方ペアの勝ちでした。 2011.7.4 一年の行事の2大イベントの一つである西日本シニア選手権が終了しました。故郷岡山での開催でもあり、何とか格好もつけたいななんて欲張ったことも考えたりしましたが・・・と言えるほどの余裕もなく、ひと試合ごとの緊張感と人の試合の喜悲をあちこちで見て、テニスとは勝負事とは怖いものだと感じながら2日間を過ごしました。55の厳しさが伝わってくる組み合わせです。少しも気を抜けないこの緊張感が楽しくもあり、苦しくもあります。 そのなかで、上位4ペアはいつもどこかで顔を合わす熱心なペア達でした。ただ、昨年のbest4で残っているのは篠邉・松村のみで、後は全ペアが入れ替わっています。上位に抜けた組もいますが、それだけではない混戦を物語っているのです。トーナメントは組み合わせが微妙で、1回戦で強い相手に当たることもあれば、上位までそうでない場合もあります。運の悪いペアはいつ出ても強豪の中に入ってしまいます。トーナメントははっきりいえば本当は優勝以外は意味が無いのかもしれません。たしかに上位に行ったことはそのなかでの力は上なのでしょうが、正しい順位を表しているとは言えません。私はいつもそう思っているのです。だからトーナメントに出る以上は優勝にこだわります。それだけは誰にも文句のつけようのない勝者だからなのです。 2011.6.30 天候は今年も予測もできないくらいに暑い夏がやってきています。梅雨もどうやら終盤できっと終わっているのでしょう。でも少し早すぎるのと蝉の声も聞けていないので気象庁は宣言をしていません。梅雨に入ったのも終わったのも判断できないのは自分たちのやっている仕事に誇りも気概もないことの証明みたいなもんです。どうせお役所仕事だよ・・・とは皆が思っていることなのです。期待もされなければ評価もされない、そんな日本が次第にできつつあります。 7/2-3と岡山で西日本シニア選手権が開催です。岡山は晴れの国というキャッチフレーズですが、本当に明るい日差しが射す国というイメージが有ります。果物や農作物が豊かに実ることも事実です。桃・ぶどうなどは有名ですよね。昨今では地震で日本中がピリピリしています。今日も長野松本で震度5の地震がありました。しかし、岡山は地震も少ないのです。火山帯がわずかに白山火山帯の末端がかかっているくらいです。ですから子供の頃より地震カミナリ火事オヤジといいますが、その一番の怖いものの感覚がない。雷は子供の時は岡山も夕立が多く凄い雷がありそれは怖かったものです。温暖で天変地異のない土地に育ったせいで私はボーつとしているのでしょう。あまりセカセカしない、悪くいえば無頓着なのです。まあいいのだと思います。悪いことはすぐ昇華して、しょうがなかったんだと思えるのであまり後に残らないですね。水に流す日本人の典型みたいなもんです。 その岡山での大会は雨の季節でも開催の可能性が高いと踏んだのでしょうか? 昨年は少し不甲斐ない負け方をしました。心が弱かったのかもしれませんし、準備が足りなかったのかもしれません。また、根拠のないこれくらいは行けるだろうという盲信みたいなモノが悪条件としてありました。好事魔多し、とはよく言ったものです。いろんなローカルの大会などですこしばかり勝ったからと言っていい気になっていてはいけません。思えば僕もその大会の段階で調整をしてきたのです。そこは本番ではありません。本当に大きな目標とする大会で勝つために心技体を鍛えてきたのではないですか?初心に帰りひたすら前を向きます。それしか僕にはできませんから。楽しくいい試合ができたらそれが一番楽しい瞬間なのです。 2011.6.17 このしばらくの間に色んなことがありました。友人たちの訃報に出会い、その葬送の儀にあるいは悲嘆の傍らに立ち、何も出来ないでいる自分がいました。もちろん人に何をしてあげるなんてできないのです。昔から、その場所で取り残されているような感覚の自分がいましたし、情け無いけど助けになってあげたり、気持ちがやすらぐ言葉の一つもかけてあげられない自分が情けなくもあり落ち込みます。二人とも若い命でした。若い命が消えゆくことには悲しみ以外の何もありません。長く生きたらその人にいい事があったかといえば必ずしもそうではないでしょうけど、いいことに多く出会えるチャンスも広がります。人は必ず死ぬのですけれど、自分に近い歳の人やもっと若い人が亡くなると心が荒んでしまいます。 2011.6.4 この世は不条理なことが多い世の中です。全ては権力という動物本来の持つ闘争本能、支配意識が形を変えて人の世に充満しているとしか思えないですね。権力が絡むのは政治とか会社とかでも最終的には政治的なセンスがないと政治家でも会社でも、上層部にはいけないのでしょう。政治的なセンスとはなんぞやといえば、基本姿勢は大衆のためを目指すか、一部の支配層を保護するためかに分かれるのですけど。長いこと生きていると、大義名分は大衆のため・・自由主義社会ではですけど、なんですがその実は自分のためでしか無いことが多いのです。いくら合理化してみても悪事を昇華してみても、結果は変わらない。真実はひとつしか無いのです。 2011.5.23 鹿児島では今日梅雨入りしたそうです。例年ならその2-3日後に近畿も梅雨になります。でも、今日の感じはもう梅雨に他ならないですね。気象庁は遡って梅雨入りをモジモジしながら宣言することでしょう。いつもは6月の10日前後から約一ヶ月の間ジメジメとした天気が続きます。湿度が高く苛つくのです。特に僕たちのようにテニスばっかりやっていると時間をもてあましてしまうんですね。 子供の頃は、近所の子どもたちと家の中で遊んでました。押し入れや普段使わない部屋か探検場所になります。我が家は100年くらい経った家だったので、薄暗い納戸は子供にとってはオソロシイところでした。今から思うと馬鹿馬鹿しいことなんですけど、当時は本気でそう思ってたんです。しかしあんまり家の中でドタバタしていると両親や祖父母たちから怒鳴られ、またすごすごと縁側に出てきます。部屋よりも回り廊下や土間に出されて遊ばされます。田舎の農家の家は玄関を入るとそこは大抵が土間になっています。雨の日でも作業ができるようになっていました。百姓は遊ばないように工夫をしていたのですね。我が家もいろんなものを作っていました。米麦はもちろん、豆も小豆や大豆、エンドウ豆から三度豆もありました。サツマイモ、ジャガイモ、小芋なんかは当たり前。コンニャクイモを掘ってきて母親はコンニャクも自家製で作ってましたね。もちろん。味噌・漬け物なんかは商売できるほど作ります。土間にはいろんなものを持ってきておいてたなという思い出があるのです。一番の苦しい思い出はお茶を作っていたことでしょうか・・・夏も近づく八十八夜とは立春から数えて3ヶ月目くらい、つまり5,6月頃に春のお茶を刈り込みます。ここの葉は柔らかくて高く売れます。山に植えてある茶畑から茶ばさみで刈り込んで、竹の籠にいれて坂道を運ぶのです。子供なのでお茶の刈り込みはできません。母が刈った茶をひたすら土間に運ぶのです。南斜面の茶畑は暑く、子供の肩には重い荷物がズシリと堪えます。学校が休みの日ですから遊びにいきたいんですけどそうもいかなくて暗くなって母がもういいよ・という声でホッとしたものでした。夏休みになると更に暑いのです。夏の2番茶は自宅で飲むお茶を作るのです。相変わらず刈り込んだお茶を土間に運んで、いっぱいになります。青々としたお茶っぱの山がそこにあります。子供なんでその山に向かって思いっきり飛び込みます。妹と二人、何度も何度も大声上げながら。茶葉の独特の心地よい薫りと冷たい毛布にくるまれます。母は口では・何やっとンじゃ!といいながら笑って見ていました。これくらい赦さないとストレスが溜まると思ったのか、自分もそうやって育ったのでしょうか? 田舎の家の門の辺りの庭ををカドといいました。そのカドの一角に父親か祖父が綺麗に土をこねてカマドを作ります。大きな五右衛門風呂のような鉄釜が乗っています。そのお釜に土間から次々とお茶っぱを運び出し煮ていくのです。これも朝早くから夏休みの朝4時くらい明るくなる前くらいから始まるのです。子供も重要な働き手です。朝からたたき起こされ長い長い1日が始まります。煮て柔らかくなったお茶を釜から引き上げ足で踏みつけてアクを抜きます、また余分な水を絞り出すのです。子供の方が軽いので葉を潰してしまわないからいいのだとずっとやらされます。でもでも、熱いのです!!そりゃそうでしょう、今釜から上げたグツグツ煮立っていたお茶と熱湯ですよ!今から考えると、あんな事ようやってたわ!?なんですけどね。足で絞ったお茶はカド一面に敷き詰められた筵に丁寧に均一に並べられます。そして、お茶を作る当日は天気の良い日でなくてはなりません。なぜなら、その日の家に乾かして乾燥用のサイロにしまわなければならないからです。朝の9時くらいまでかかってお茶を並べやっと一息。そうしていたら、お茶の葉を返して!と母の声。太陽が照りつける中、筵を一枚一枚畳んで、お茶を中央に寄せてまた筵を広げて手で均一に敷き詰めます。少し乾燥してくると、番茶の匂いがぷんぷんしてきます。全部終わってやっと昼ご飯、幸せです。・・・食べ終わったらまた同じ作業・・・3時のお菓子をもらったら、3回目です。もううんざりです。お茶は二度と作りたくない!!夜はぐっすり眠れます。 こんな事を書きながら、何故だか今まで頭に浮かびもしなかった光景がどんどん見えてきます。朝の早い星が見えてたころ、父親がシャツとベージュの作業着でカマドを炊いている。・一郎、起きたんか?こっち来い・・と無口だけどニコッと笑って、寒かろう・・とカマドに並んで赤く燃えている炎を見つめている。そんな何でもないことが、自分の心の中には父親の思い出として残っているのです。何をしてくれたわけでもない、ただちょっと並んで座っていただけの事なんですが。何故だか苦しい思いでのはずなのにこうして思い出すのでしょう。ただもう父親はいません。二度とあの微笑みに出会うことはないのです。 家の土間は、子供の雨の日の遊び場所です。男の子は土間に掘られた凸凹の穴を使いビー玉で飽きもせず遊びます。あの頃からビー玉の取り合いというのはあったのです。強いものは弱いものから自分の好きなビー玉を取り上げる。どうしてもそれが欲しければ挑戦して取り返す。腕が悪ければ取り返せないので必死で練習します。でもガキ大将は強かった!なかなか勝てないですね。戦いの場は各家の土間です。当然アウェイは不利です。ホームでは必死で練習するので勝てる確率は高いのです。 テレビもなければ少年週刊誌もない、毎日が魚取りと野山を走り回り自然と会話をしていた頃の話しです。 2011.5.22 朝から雨模様です。昨日は急に気温が上がり、午前中の練習でもバテてしまいました。暑さというのは人間の体に大きな負担をかけるもののようです。動物の体は機械ですからそこに送られる血液の流れや機械の構成タンパク質の硬さなんかに数度の変化が影響するんですね。組織が末端に行けば行くほど血管は細くなり酸素-二酸化炭素の交換部分や筋肉の動きの為の熱変換と熱交換のために使われる莫大なエネルギーは単位時間当たり急激になります。その急変化に老化しつつある肉体はついて行けず飽和してしまう。悪くなれば死んでしまいます。急激な温度変化でお年寄りが急死するのはそのせいでしょうね。たかだか10℃くらいの変化に人はついて行けない弱い存在でもあります。そう考えると数万年にわたり人はこの地球で暮らしています。母なる海、父なる大地とはよくいったもので、この水と他の無機物質のサイクルで生物は温度変化を起こさせないように地表を覆い、一定化を図り地球を安定化させてきました。主に植物たちが数億年に渡ってやってきたことです。動物はその地球に偏在化をおこさせないように動き回って一定化を助長してきました。これが地球を安定化させている自然の意思なのでしょう。 しかし、今は人はその基本姿勢を忘れ、地球に偏在化を逆にもたらし、あらゆる植物・動物の存在バランスを壊しにかかっていっていました。少し前までは。。昨今では、科学技術の進歩が全ての人類に恩恵をもたらすとの考えで動く風潮に待ったがかかっています。人だけが地球に住んでいるのではなく、あらゆる生物との共存が人を生かす道だと、少しは気づいてきたのでしょう。私たちが本当に大切にしなければならないものは何なのでしょう。そうしてそれを実現するためにはどういったことをしなければならないのでしょう。個人の大切さが本当に一番必要とされるものだと、今回の地震でもその後の対応でも見えてきています。私たちは地球に住んでいてこの国日本に住んでいてある意味では守られています。今は古き時代と違い、国際社会が一国の内政をグローバルな見地に立ちバランスが取れるように関与しています。そうしてその中で小さな家族や一族という単位で、あるいは地域のコミュニティという単位で生きているのです。どこを大切にしてどこを切り捨てることなんかできないのです。今の日本は管理社会となり管理される側とする側の2極化が進行してきています。経済的・所得にも2層化が起こり始めある意味では、一時言われた勝ち組負け組という分類になって来つつあったのでしょう。世界が安定化して、いくら努力しても抜け出せない閉塞感があれば、そこで逃避に走るか脱出するかのどちらかです。疲弊した社会で日本のようにまあまあの経済力を個人が持っていればしらけ・諦め・逃避となり、個人の自己保守に入ってしまいます。日本は金は持っているが、国民の自己資産が多く使われないので社会は依然不景気感が漂います。でも個人で見れば割と余裕があるように見える社会なんです。 私が言いたいのは、あまり個人に埋没しないで欲しい、何事も無関係だと・自分の家だけ・自分の家族だけが良ければいいんだと思わないで欲しいということなのです。世界のなかで個人の存在は小さくて、自分一人が・・などと思ってしまいがちです。しかし地球的なバランスを考えれば決してそうではない、自分も地球を構成する一人・一単位なんだと認識してもらいたいと思っています。 日本は国力を増すために、力で他国からのものをもぎ取ってくる植民地や略奪はしなかった。しかし、安く資源を日本に集め、巨額のお金を生み出し、巨大なバブルを世界中に引き起こした。これはアメリカだけでなくつい最近までGDP第2位であった日本の責任は大きいのです。リーマンショックで日本は被害者のように言われてますが、実は加害者に他ならない。世界中の森林の伐採、砂漠化の進行、フロンや二酸化炭素の放出による温暖化やオゾンホールによる地球を保護する大気層の破壊、生物の乱獲による生態系のバランスの崩れ。 日本に目を向ければ、各地で熊や猿・鹿・イノシシの被害が起こっています。そして杉・檜の花粉症。都会に人口が集中して地方の人口バランスが崩れ自然を管理できなくなったため、動物と人間の数的バランスが取れていないのです。動物は増えすぎました。そして異常気象による食物不足で異常に増えた動物たちは自然と作物を荒らしに来るのです。動物にとっては食べ物があるので食べるだけです。花粉症だって人災です。その時だけを凌げばいいという考え、もう一つは材木が必要だと植林を推進した農水省の責任も大きい。植林だけさせておいてメンテナンスは自治体任せ、そうして建築ブームになると利益優先で東南アジア、ロシア、カナダなどから安価な外材を輸入。国内の木は置き去り。その結果何をもたらしたか。森林伐採による地球の砂漠化、花粉症の増大。国内の都市への人口集中化で地方の消滅集落の発生。 利益追求のため地震大国での原子力発電の推進。その結果による今回の世界的放射能汚染。これが長期的に地球を大切にしていこうという国の政策とは決して思えません。つまり日本は自分勝手に国力を上げることだけを優先してやってきた国なんです。地方は置き去りにして。 脱皮をしなければいけないです。どんな人を選んでどんな人達に任せればいいのでしょう。 2011.5.14 近畿大会が奈良の明日香コートでありました。今年は東西対抗と近畿大会が重なり、主力の2チームが欠けたため、少し薄いなという印象でした。例年より出場組数も少なく、近畿大会で初めてシニア55男子はリーグトーナメント方式に変わりました。2試合はできるという気安さが増したわけですが、勝ち上がるのは1チームですから、負けるのはできません。三つ巴で運良く勝ち上がったチームは数えるほどしかいません。僕は負けると終わりのトーナメントが好きです。それはその緊張感を楽しめることと、その厳しさが好きなのです。 今日は谷尾・杉野、綱島・成冨ペアが東西対抗に行っているので,55ではもちろん強豪は多いですがやはり勝ち上がらなければならないと思って臨みました。ただ、どちらか分からんなと思うのは中村・鶴岡ペアだろうなと思っていました。プログラムを見ると準決勝で当たります。ここがヤマかなと思いますが、その前の谷本・宮浦ペアも最近は絶好調で上位の常連となって来つつあります。そんなところで何とか決勝には駒を進めたいところでした。谷本・宮浦ペアにはストローク力で一日の長がある小早川氏が押す展開でした。要所では宮浦さんを攻めてポイントを上げていく。追いつかれそうになっても攻めきってしまう作戦で勝ちにつながりました。準決勝は長時間待たされた後の試合です。中村・鶴岡ペアとは同じ橿原クラブでの練習仲間、毎週2試合ずつとして今年だけでも20試合くらいはやっている相手です。それだけにやりにくい面もあり、試合開始から2ゲームまではこちらのペース。3ゲーム目は勝ちを意識して2-0の1-3となり嫌なムリード。しかしここから踏ん張りジュースにまで持っていきムードとしては勝ちに。色々もつれで長いジュース。チャンスは小早川氏のセカンドレシーブのサイドアウト、次を追いつき逆にゲームポイントしたが中村の逆サイドツイストに反応したのですが少し遅れて手首で引っかけてボレーアウト。ジュースとなり、リードされ、上がったところを鶴岡氏スマッシュ。甘かったのですが、ラケットの先っちょに当たりフォローできず。落としてして2-1。次のゲームも2-0までリードするのですが追いつかれ2-2。2-3で鶴岡氏のレシーブ。サイドパッシングかと言うところ。センターに立ってサイドだけを守るよということで打合せ終了。鶴岡氏はツイストを考えていたようで、僕がやや早めにサイドに入ったためツイストをしてきました。今日の我々は読みが万全でないと感じていました。何本かそういうときがありました。このポイントは全く予期しない感じでノータッチ。珍しいことでした。2-2のゲームからは、でて邪魔をしなくてはと思うのですが、先に後衛のバックに打たれ、ロブで上がってきたのを防戦になります。センター気味に打たれまたサイドに打たれ、甘くなったボールを叩かれたりしてリードを広げられます。僕自身も今日はそんなに動きが良くなくてポジションで誤魔化せない感じでした。後衛側に上がったスマッシュは任せるよと言っていたのですが、3~5ゲームでその展開で後衛が打って殆ど悪い結果になっています。とうとう相手のマッチポイントで追っかけてミスをしてしまいました。後衛はなぜそれを追うのだ!といいます。しかし、悪いときは追っかけてしまうのが攻撃的な前衛の修正で宿命なんです。無難に行こうという前衛と組めばそんなことはないでしょう。しかし勝負もないので何もしないで負けてしまう結果となることが多いでしょう。 東大阪でもそうでした。ただ今日は試合後、この試合の反省をして、いったいどこでおかしくなったのだろう、敗因は何だろうと解析してみました。やはり2-0,1-3から追いついたのにゲームを取り切れなかったことことが大きな原因だと。お互いのレシーブで攻撃する気持ちがもっと強ければねじ伏せられたはずです。そこには無難にやっておけばいいのではないかという一種の期待感があったようです。 勝負事には相手への負の期待はしてはいけないのです。自分たちができることをやり通す強い意志と技術が必要なだけです。テニスは本当に難しい。いくら学んでも終わりがありません。まだまだ挑戦は続きます。 2011.5.11 5/3南港から阪神高速に乗り20分くらいで東大阪吉田コートへ。毎年超壮年大会に参加しています。小早川さんと初めて組み、何だか分からないままに決勝へ。谷尾さんに負けたのですが、組みやすいかなという印象でした。次の年、決勝で再び谷尾・杉野ペアとやり0-3から挽回して優勝。一生のうち印象に残る試合の一つでした。55になってからは2連勝してるのですが、勝つのはなかなか難しいですね。 今年は、谷尾杉野ペアが出ます。いつも若水杯にでるのでこの大会は出ないのですが、今年は若水に出ないので東大阪にとのことでした。彼らも苦しんだ時期がありました。しかし昨年見事な復活を遂げています。我々もまた自分を強くしていかねばなりません。今回も強敵が多く、勝ち上がるのも苦しいなと思いながら臨みました。ただ小早川氏は精神的タフさでは後衛としてはきっと一番強いと思います。弱くなることがあっても立ち直らせることができます。一瞬で立ち直るその気力と実行力は凄いものがあります。感心してしまいます。自分へ射つ麻薬の量と時期を心得ているのでしょう。今日も厳しい戦いです。準決勝は松浦・松村ペア。毎回上位で当たるこのペアには、お互いを知り尽くした上での戦いが必要です。一球目からどうした、次はどうする。何度となくやっているだけにその裏をかいていかなければ主導権を得られません。今日は先手を打たれまず一球目をサイドに打たれました。前回僕が一球目から取りに行ったので逆に足を止めようという作戦でしょう。少し足が止まったのですが、ひるまず出るように気持ちを持っていました。小早川氏は簡単に攻められないように配球します。僕がしっかり固めていれば不用意には打てません。今日は我慢をすることで勝利でした。決勝は谷尾杉野ペアです。谷尾杉野ペアにここ3連敗です。それも一方的にやられているので一矢報いなければなりません。今日も、おそらくこういった作戦で来るなという想定をしていきました。そしてその通りとなったので本当は我々が勝たなくてはいけないところでした。しかし、絶対そうだと思っていなかった、半信半疑だったことも事実で広くボーッと守ってしまいました。その為、チップやミスが多く先行されます。僕の足が止まったところで少し焦った小早川氏のミスを誘うのです。また、杉野氏は一球目からクロスに取りに出てきました。小早川氏の焦りを誘いとコンピュータを混乱させるためです。それでも安定しかかった1ゲームの終に谷尾氏がコートに足を取られてダウン。頭を打ったか動かず。やはりこういったアクシデントは集中を欠きます。なんとなくズルズル行ってしまうのが悪い癖です。しかし今日の敗因はそれではありません。0-3まで取られましたが、我慢して1-3、次のゲームも2-0リードしましたが、次のポイントをスマッシュミス。次も薄暮の中でチップをしてしまいました。もっと我慢をすればよかったのかと後では思います。ただ、今年自分で課していた課題をこの緊迫していた場面で追っかけられたこれは自分の中では進歩だと思っています。任せておけばいいではないか・・見ている人も、小早川氏もそう言います。試合を壊してしまったではないか?!そうです、そのとおりです、結果として壊してしまいました。それは責められても仕方が無いことです。でも僕は後悔はしていません。以前ならあそこで行けない自分がいた。しかし今回は自分の中の勝負心が取りに行かせているのだと。たまたまうまく行かなかっただけ。あれが決まっていれば、よく取ってくれた!と言われるではないですか。ヒーローと罪人は紙一重です。そういったことも全日本までの練習と思えばそんなに大したことではないと思うのです。ただ、秋までにはこの技術を自分のものにして決めきってしまわねばいけない。そういったリスクもあることは事実なのです。しかし怖がっていれば今の自分を乗り越えることはできないのです。急激に高みに行こうというのではありません。少しだけ乗り越えてみるつもりです。 5/3は東京から新沼夫妻と中村氏がいつも東大阪の大会に参加でやってきます。関西はソフトテニスが盛んで、関東に比べるとローカルの試合が非常に多いのです。関東では組織がまだ充実していないのかなという感じです。関西は歴史が古く愛好者も多いのです。この日は新沼・中村ペアは勝てなかったのですが、毎年いい成績を収めておられます。いつもこの日は我が家でテニス合宿となります。彼らは酒もあまり飲まないのですけど、根が明るいのでいつも飲んでる雰囲気ですね。近くのスーパー銭湯に歩いていき、そこで食事もついでに行いました。割とリーズナブルな値段で大いに楽しみました。そこから初夏の風に吹かれながら家まで歩き、また遅くまで話し込んでしまいました。明日は休養日。彼らは姫路城の見学に行くそうです。先日予約をしたようですので大丈夫でしょう。 5/5しあわせの村での神戸山手クラブ全国大会。この試合は関西、中四国地方からたくさんの選手が集まる格式の高い大会です。今年も多くの仲間が30ペアもシニア55で集まりました。10歳刻みですので65歳までの選手がいます。3チームのリーグですがどの組にも競合がひしめき,殆ど全日本選手権にほぼ近いレベルです。昨年、一昨年とトーナメント1~2回戦で敗退した記憶があります。神戸は鬼門と新開氏と話しています。彼も40年くらいで続けています。そのうち決勝に6回コマを進めていますがことごとく負けです。そのうち1回は私と組んで、山本・大塚ペアに3-2,3-1でマッチ2本を逃して負けています。しかも最後の1本はストレートを割と気持よくボレーしたのを大塚選手にフォローされたものでした。ああいったときは何をやっても勝てないような気がしてしまうもんですね。 リーグは毎年2チーム抜けですが、今年は参加数が多く1チーム勝ち上がりとなりました。まあこのほうが試合らしくていいです。負けてもいいやという気安さが勝負への執着心を希薄化させてしまいます。遠くから来た人に試合をたくさんさせてあげたいという主催者の意図もわかりますが、勝負は厳しいものです。1回しか無いから負けないように頑張るというのと1回しか無いから参加をやめておこうというのでは、すでに勝負は決まっていますからね。昨年もいい成績ではなかったので、今年も厳しいゾーンです。 勝ち上がったところで、松浦・松村。一昨日のゲームがお互いに頭にあります。ただ後衛が違うので展開も変わってくるはずです。色々と考えている内にレシーブキープで2-2。これからが勝負所だなと話し合い離しにかかります。得意の中ロブから返った球をセンターへ打ち込み、甘くなった球を処理しようと。攻撃で押さえ込んでいく作戦です。これが功を奏し次のゲームも取り④-2で勝利。次は柿原・藤村ペアです。柿原氏のトップ打ちとストレート中ロブは脅威です。ここに打たせないように考えてやりました。④-1で勝利。これでBest4です。勘弁して欲しい。次は緒方・荒川ペアです。緒方さんも若水杯で決勝の相手、どこでも必ずやるようにできているペアです。今までのところ我々に分がありますが、いつひっくり返ってもいいような試合ばかりでした。今日も厳しいコースの打ち合いです。それでも何とかリードを続け3-2の3-2マッチポイントです。逆ストレートから速い中ロブを仕掛けられノータッチと同時に、新開氏が”足が攣った!!~!”と叫び芝生に倒れ込んでしまいました。え~~っと思ったのは僕だけではないでしょう。10分間の休憩をもらい、何とかアミノバイタルや漢方薬、塗り薬のおかげで復帰しました。 これは、頑張らなければいかんなあ・・・と思い、サービスエースを狙いに行きます。成功したのですが次マッチポイントを放りだし、アゲイン。新開のサーブもエースだが次のマッチを返される。もう一度僕のサーブ。ここで取っておかねば後々まで響く。ラケット担いでも行かねば!!と、エース気味に打ち、返ったボールでアドバンテージ。次はサーブを入れ、前に付き一本目をクロスポーチ。これが決まって勝利。頑張ってみました。 新開氏の足がつったのは試合中では初めてです。帰りの車の中で足がつって走れなくなったのは時々聞いています。暑かったし、前日までハードな仕事をしていたのもありますし、彼が歳を取ってきたのもあります。彼もやはり生身の人間でした。恐ろしく丈夫ではありますが、少しは気を付けなくてはいけない年代になってきたということです。 アクシデントがあるとペアは何とか逃げきろうと思い勝負をかけます。相手は少し気後れして、気遣う気持ちも生じます。緒方さんも荒川さんも良い人ということです。その少しの気持ちのゆるみと集中力の欠如が明暗を分けました。私はエースを取るつもりでサーブを打ち、近くに来れば取り切ってしまうと気を入れます。その差は昨年の近畿大会の決勝、2日前の東大阪の決勝でも同じことが言えました。彼ら谷尾・杉野ペアは何ら我々に思っていない。まだやれる、やれるところまでやるんだという必死の思いです。しかし我々は、何だか集中力を欠いてズルズルとポイントを失っていきました。前衛の気迫も後衛の立ち直りも気づかないままに、気乗りのしないままにゲームを進めました。それはなんという失礼なことそして浅はかなことだったのでしょう。自分が逆の立場になればわかります。負けるのも勝手です、気乗りしないのも勝手です。相手の選手たちはハンディを持ちながら、ハンディをさらけ出してそれでも試合をやるとコートに出ているのです。それに対して全力で相対しないで試合をするのはいけないですね。完膚なきまでに叩きのめして、ハンディを負ったら絶対勝てないんで即棄権しようというふうにならないといけない。でも、ハンディを負っていても負けないで勝ってしまう・・。色んな心の強さを持って、技術も高く、何が起こっても動じない・・やはりそれがチャンピオンでしょうね。まだまだです。 決勝は原田・東ペア。原田さんは足も速くロブを打ちながらつなぎながらチャンスには打ってくるしツイストなど何でも出来る選手です。今年は柿原・原田ペアで1勝1敗。新開氏とは2回目です。東(ひがし)さんとは2回対戦したかな。勝負強さと思い切りが良い選手ですから要注意。僕も準決勝の雰囲気とラリー中の新開氏の腰の高さを見るとこれは早めに決めていかないとイカンかなと思っていました。これが焦りとなってしまったのですね。2-1までリードしたのも良くなかった。次を長くジュースを続けて落とし、次も落としと焦りが押し寄せてきました。6ゲーム目に新開氏が1本目を中ロブサイドアウトした時点でこれは焦りが弱気に転じていると感じました。案の定簡単に落としてしまいます。2本返しましたが追いつけませんでした。 仕方がないやという言い訳が自分の中にあったかも知れません。とにかく気持ちがぐらついた我々の負けでした。 神戸山手クラブの浜本会長はじめ会の皆さんには震災に対する沈痛な思いと励ましのエールを送ろうという力強いお言葉をを冒頭で頂き黙祷も捧げ、更には多大なるご支援を頂きました。またご参加いただいた選手の皆さんも快く商品や参加賞のTシャツ、使用ボールなどをご寄付いただきまして有り難うございました。感謝でいっぱいです。東京より参加してコツコツと支援を訴え、黙々と支援活動をする新沼さんやサポートする中村さんも本当に感謝をしておられます。本日5.12先日頂いた支援物資をまず福島件の連盟に直接持参されたそうです。ご報告申し上げます。目に見える形で我々のできることをコツコツと支援していってあげたいと思います。きっと復興までには長い年月が必要でしょう。。日常を取り戻すには大変です。我々も地道に継続したいと思います。 2011.5.10 5/2は迫さんが休日とのことで指宿・知覧を案内してくれました。池田湖にはイッシーが住んでいるとのことですが、いたらいいなあと思います。一つくらい夢があってもいいんじゃないでしょうか?この殺伐とした世界にも。池の端には世界一ウナギと書かれた小屋があります。見れば体長2m近く太さは15cmくらいある巨大ウナギが3匹ほどいました。えらビレが何だか人間の掌みたいでゆらゆらと揺れています。水槽の中に結構大きな魚が泳いでます。何?って聞いたら・・餌だよ・・って!!?食べるとこは見たくないけど、あんなの食べるんだなあと思うとオソロシイ化け物に見えてきました。・・・いやー、人間はもっと化け物でしょうけどね・・ イッシーの想像のオブジェがある手前には一面にお花畑が赤や紫、黄色と色んな色取り取りの絨毯を広げています。池の向こうには開聞岳が大きく見えます。指宿の象徴で素晴らしい山です。どこからでも見えるんだねえ!!池田湖は綺麗な湖です。近寄ってみると水の透明度が高く透き通っています。大きな工場何かが殆どありません。それでいいんです。それでいいんです。指宿よ、そのままであれ、あって欲しいのです。 ・・この水は私たちの水瓶だよ!・・と迫さん。・・湖の底から湧き水があるんだよ・・そうなんだ、美味しいだろうね、この透明感から絶対そうだと思う。暖かい5月の風が湖面に穏やかな波を起こします。若葉が山々に命を吹き込んでいる様に見えます。やっと春になった・・という感じです。でも今年ももうすぐ暑い夏がやってくるのでしょうね。 ゆっくりしていたので相当時間が経ったようです。知覧までは割と距離があります。早く行こう・・と促されます。池田湖よさようなら(^^)/ 知覧に近づくと森の中から突然平地になると同時で道の両側に石灯籠が立っています。えっ・・と思っていると、知覧ってかんじがするでしょう・・・と言われました。知覧のイメージが全くなかったので、そうなのだ、こういう雰囲気・・ずっと霊を祀っている感じの町なのだと、気づいたのでした。 駐車場も5/2平日なのでガラガラに空いていたようです。でも停めたのが第2駐車場だったようで第1駐車場は割といっぱいだったようです。正面入り口に回ると、沢山の人がいました。若い人達も多く、そして修学旅行か平和学習か中高生も多く見られました。中にはいると、非常に混雑してるのですけど、異様な雰囲気です。ざわついた感じはなく見入っているという表現が却って緊迫感を醸しだしています。壁一面に写真が張り出され、ショーケースには家族に宛てた手紙、辞世の句、詩、寄せ書き、檄文・・色々と色々と展示してあります。皆素晴らしい達筆です。そうでしょう。死を覚悟した人の最期の書き記した字なのです。生きていることへの感謝と無念さ、死ななくてはいけないことへの文句は書いてはありません。しかし、死にたくないという言葉にならない気迫が言葉をかき消していますが、凛とした文字に逆に現れてしまっているのです。私は、誰かも分からない人の両親に宛てた手紙を読みました。何通も何通も・・。確かに両親に宛てて書いた手紙なのでしょう。感謝が、今の覚悟が、淡々と切々と粛々と寒い空気を切り裂いていくように簡潔に語られています。20歳前後の若者が大成していたとは思えません。しかし彼らは自分の運命を受け止めていました。その潔さが張り詰めた糸のように儚く見えるのでしょうか? 僕が小学生の頃、紫電改の鷹、という戦争マンガがありました。戦闘機がかっこよく見え、グラマンやスピットファイヤ、メッサーシュミットなどと戦う姿にある種の憧れがあったのです。戦争を肯定するものではありません。子供というのはそういうものです。憧れるものになりたいと思い惹かれていくものなのです。ただ、そのマンガは最後に悲しい結末が待っていました。誰にも負けない黒塗りの紫電改を手に入れ、これから敵をやっつけるぞと気を吐いていたとき、上官から特攻隊として出陣すると告げられるのです。彼は叫びます、死にたくない!まだまだ戦える!撃ち落とされるのは仕方がないが、自分から死ぬのは嫌だ!!と上官に詰め寄ります。しかし上官は、後ろを向いたままこちらを向きません。彼は近寄りますが、ハッと気がつきます。肩が震えています。鬼のように非情な命令だけを伝える嫌な上官だと思っていた人が、泣いている。上官は言います。力の限り育ててきた君たちに死んでくれと言うのは死ぬより辛い。だが君に親はいないか?守るべき人はいないのか?この日本の土地を守ることができるのは君たちしかいない。今や日本には人間を兵器の1部として爆弾として使うしかないところまで追い込まれている。君が空を飛びたくてももう燃料はない。行かなければ守るべき人が犠牲になるかも知れない。・・・私も明日は君たちと共に行く!! 偶然読んだ中に「君(天皇)のため部下達に死ねと教えてきたが、まず私が見本を示そう!あの満開の桜から一番に散る桜の花びらのように」といった短歌がありました。上官の気概でしょう。ただ、やはり天皇のために死んだ人はいないでしょう。紫電改のタカの主人公は、次の日知覧から特攻に飛び立ちます。そして数時間後、彼のお母さんと幼なじみで恋人の信ちゃんが大好きなおはぎを持って鹿児島に降り立ちます。・・お母さんが最後に言うシーンでマンガが終わります、・・・あの子喜ぶかしら、おはぎが大好きだから・・・ 子供の時、この最後を見て、こんなマンガがあるものか・・最後はハッピーエンドでなくちゃ!と思ったものでした。しかし、僕はこのマンガを今でもずっと覚えています。かっこいい飛行機乗りのマンガとしてではなく、戦争はやっちゃいけないんだ。結局みんな不幸になる・・・・という何とも言いがたい印象を受けた初めてのマンガとして。 泣いてしまいました。皆泣いていましたが理由は色々あるでしょう。僕の涙は、真実の言葉には勝てないんだという再確認とその昔のラストシーンと詩がダブってしまったから余計に感情が高ぶったのです。寄せ書きには建前の言葉が書かれています。撃沈!とか粉砕!とか大和男児、お先に御免!とか。それがまた哀れに思えます。 2000人近い人の遺影と形見、特攻に使われた飛行機やボート、潜水艦(回天)などが陳列されています。皆が墓標に見えました。 知覧・指宿に別れを告げて、志布志に向かいます。角野さん御免、時間を取りすぎて鹿児島に立ち寄る時間がありませんでした。高速道路ができているとのことで、割と早く着いたのですがそれでも16:30。手続き終わって車に戻るともう乗船です。間一髪だったですね。聞いてて良かった(^^;) サンフラワーは大きな船で、波にも強く快適に寝られました。食事も割と安く、特にビールと鰹のタタキは美味しく、元は取ったかな?18:00出港で次の日7:40南港に着。そのまま東大阪の超壮年の試合に向かいます。 2011.5.4~5.9 4/28夕刻に大阪を出発。徳島のsinngai家を目指して出発です。これからGWのテニスの開幕と1年に1回の旅行が始まります。今年の6月で高速道路の1000円割引が廃止されるようです。元々の発端がはっきりしないまま実施されましたが、実質的には恩恵を受けました。大きな荷物を持ち、車で移動する方が有利な我々のようなスポーツ転戦組には良い制度でした。もちろん後付かも知れませんが、行く先々での食事会やお土産品の購入で少しは景気高揚に役に立ったのかも知れません。これから高速道路料金が余分にかかるなら、少し遠征も考えなければなりません。しかし昨今、テニスコートは山の上か海岸沿いあるいは人里離れた場所にあり、車がなければとんでもないことになっているのです。頭が痛い問題です。 4/29は香川の若水杯です。毎年年始めの大会で、新開選手と行きます。絶好調とは言えず、苦しみながら勝てたのは収穫でした。しかし次にこのように戦えるかは分からないのが今の不安定さです。 4/30今回は、熊本の松村さんにお世話になりました。松橋クラブにたくさんの方々に集まってもらいました。沼田さん、緒方さん、松本さん、女子では宮崎さん、桑園などです。皆さんにお会いできて光栄ですし、嬉しいことです。会長さん初めクラブの皆さんにはお世話になりました。楽しい1日を過ごさせていただきました。15:30頃雨が降らなければもう少しお相手いただけたのですが、残念でした。 松村さんご夫妻は今年春先に大阪にいらっしゃったのですが、八尾で会食したその時に是非九州に来たときはよってよとお誘いいただき図々しくも泊めていただきました。八代に近い松橋(まつばせ)という町です。旧家であり、母屋は家の周囲を回り縁が囲い板の間の廊下越しにガラス戸から外が一望できます。中は障子で柔らかな光を取り込むようになっています。子供の時に我が家も同じ様な柔らかさを持った家でした。ふっと時代が頭の中で50年近くを戻り、まるで子供の時の光景がフラッシュバックしたようでした。今は奥さんと二人で広いお家に暮らしていらっしゃいます。テニスの話しで夜遅くまで話し込んだことでした。 次の日は10時頃までゆっくりさせていただきましたが、鹿児島へ向けて出発です。昨年は桜島を見て素晴らしい薩摩のシンボルに惚れ込んでしまいました。本当は霧島の方にも行きたかったのですけど、昨年噴火した新燃岳のおかげで近寄れない状況です。昨年の5月にはそんなことは無かったのですけどね。今年は、昨年色々話を聞いて開聞岳と指宿の砂蒸し風呂には絶対に行くんだと心に決めていました。そしてもう一つの目的は知覧の記念館に行ってみることでした。昨年大阪に帰ってテニス仲間と話しをしていたところ、鹿児島出身の田中要さんが「鹿児島に行くんだったら知覧に行ってご覧」と薦めてくださったからです。知覧には第2次大戦で無くなった特攻隊の兵士の遺品が納められ展示されているそうです。・・・楽しい旅もいいけど、知っておいた方が良いこともあるよ・・・と田中さんは言います。・・僕はいけない、あの手紙を読んだら、もう涙が出て、可哀想で可哀想で・・と本当に泣きそうになって話されたのです。もうすぐ60歳も見えてきた今頃、決して早くはありませんが行ってみようと決めて来たのです。 鹿児島北から指宿道路へ入り、スカイラインを通ったら眺めがいいかなと思いそちらに行きました。熊本を出るとき今にも泣き出しそうな空は鹿児島の手前で大粒の雨に変わったのですが、天気図を見るとどうも晴れそうでしたので、自分の晴れ男性と合わせてまあ晴れるだろうと信じてやってきました。案の定、指宿道路で雨が止みスカイラインでは晴れ間が出ました。これならもう開聞岳はきっと綺麗な顔を見せてくれるだろうと思います。昨晩、松村さんが・・枕崎でかつをを喰ったらうまかったよ!!・・といわれたので、急遽枕崎に行ってみようと思い立ち、スカイラインの途中でおりて行ってみました。近いもので30分くらいで着いたでしょうか。かつを祭り!!と書いてある方へ行ってみましたが、5/4から・・・残念です。真っ直ぐ突堤まで行って堤防に駆け上がりました。ここは本四島南の方でしょうね。ここも大堤防建設と書かれています。 最近の地震を津波を思い出します。南海地震の時はこの堤防が役に立ちますように・・堤防の上からぐるりと見回すと海に向かって右の山の上には風力発電の風車が何基も立っていて勢いよく回っています。それほど風の強いところなんですね。南国の海という感じで山も白く霞んでいます。そうだ・・これは黄砂なんだ・・と改めて思いました。雨の後、普通だったら綺麗に澄み渡っているはずです。しかし、まるでもやの中にいるような感覚、凄い黄砂がこの地を覆っています。後で聞けば、日本中この連休の初めは凄かったそうですが。 写真を撮り、ゆったりとして隣のおみやげ物市場へ。かつをの製品や海産物が一杯です。しかし、まだ丸1日いますし帰っても大阪の自宅に帰り着くのは2日後です。生ものは買えないなあ・・と日持ちのするものを買いました。 地図から見ると海岸沿いに走れば開聞岳に行き着くなとおもいゆっくり走らせます。見たこともない木ややしの木が沿道に植えられて南の土地だと実感します。しかし、ですよ。このGWにもかかわらず、道が渋滞していることはありません。人が集まるところが良くわかりませんが、いままで行ったところで混雑しているところは殆どありません。強いていえば阿蘇山への熊本側からの交通量がやや多かったかな・・・くらいです。 しばらく走っていると前方にぼーっと三角形の山が霞んでるけど見えました。開聞岳!!感激です。綺麗な山です。これが知覧から飛び立っていく兵士が富士山だと思い山をぐるりと巡って敬礼し、覚悟をした山か・と思うと尊厳さをも感じます。 写真を撮りたいと思うのですけど、いい場所がありません。道沿いだと色んなものが入ります。そうだ海岸へ。。どこか場所も分からないですけど海岸に出るとそこには何とも素晴らしい開聞岳が優しく出迎えてくれました。半島の先端に位置する開聞岳はすそ野が海に伸びていくようです。美しい円錐形の山はどこから見ても同じ形です。富士山と同じように一箇所段があります。そこが火口なんでしょうか?この山も活火山です。休火山ではありますが。新燃岳や桜島、阿蘇山の列の中にあるこの山もいずれは噴火する日がやってくるのでしょうか? 海岸でカメラを用意していると、2人の姉妹が突然現れました。僕を見るとびっくりして一瞬顔が合いましたが、ニコッと笑ってお姉ちゃんがこんにちはーと言って走り抜けていきました。お揃いの黒のTシャツで海に向かって走ります。僕は山の写真を沢山撮りました。開聞岳だけや自分が入ったものや波を山と一緒に被せたり、カメラも2台持っていたので色々撮ってみました。その間彼女たちは波と遊んだり、砂浜を走ったりテトラポットの影に入ったり何だか自由に駆けまわっていました。目鼻立ちのはっきりした小麦色の一人は6-7歳、一人は10歳前後でしょうか?開聞岳によく似合う南国の天使達に別れを告げて一路開門岳から長崎鼻へと回ります。陸側を一周しても山の形は変わりません。いいスポットが途中にもありました。長崎鼻にも行きましたが、特に公園に入る予定もなく、南国の感じに触れただけで走り去りました。少し早いがホテルに・・と走らせていると「砂蒸し温泉」の看板が見えました。ホテルにもあるのですけど、やっぱり外がいいかな・・と行ってみることにしました。急な崖をおりていくと海岸沿いに湯気が上がっています。車がすれ違えないほどの狭い道を通り、どこでも停めていい感じの駐車場に停めて温泉に。きっと手ぬぐいなんかは持っていった方が良いんだろうなと思い持っていって正解です。\700で入れました。少し混んでましたが、10分ほど待って入浴。砂を掛けてもらうのですけど、これがまた重い。背中は温かくじんわりと汗ばんでくるのが分かります。少し経つと脈拍が感じるようになります。ドクッドクッ・・と砂に押しつぶされまいと・・俺は生きているんだと心臓が抵抗しているように感じられます。少しの砂を被せられてこのしんどさです。土に埋められたりすればそれは大変なことですね。15分が目安です・・と言われていたので、モゴモゴと砂から出て砂を落として温泉に入りました。広島から来たという人と話をしてほのぼのとしたものでした。温泉から出ると蒸気で卵をゆでてます。一個50円は安いですねぇ。帰りに道の正面に開聞岳が大きく見えます。さっき写真を撮ったところと反対の側です。でも山の形は変わりません。ここから、道沿いに30分ほど走り指宿の市内へ。これは完全に温泉町ですね。のどかな感じがします。車で走ってみて気がつくのですけど、このあたりはどこを走っても土地が綺麗に整備されています。人はこの土地をとても大切にしているのだなあとつくづく感じてしまいます。 確かに薩摩は東京や大阪などからは遠いです。そこに行けばまず鹿児島に帰ってくるのはよほどの用事がなければ帰れないですね。だからはっきりとしているのではないでしょうか?この土地で暮らすんだという愛情があるようなそんな気がします。私の家は岡山の寒村です。そこは今や過疎の村で消滅集落になるかも知れないという懸念もあります。出て行ってしまった僕たちが悪いのですけど。大阪まで2時間、東京までも5時間くらいの気安さが却って過疎を促進してしまうのです。若者は都会と田舎のギャップを感じ、手の届く都会に足を踏み入れ帰れなくなります。帰って働く場所があれば、生活する洗練された環境があればまた」違うでしょう。僕の町(合併前)は広いです。しかし、そこには2000人ほど平均年齢70歳以上の高齢者が多く住んでいます。町にはコンビニもなく雑貨屋が1店。かつては商店街もあり活気もありました。しかし、東京や大阪、名古屋への人の流出を止めることはできませんでした。努力はしたと思います。高原開発を行い、リゾート地としたり、国際サーキットAIDAをつくり人を呼ぼうとしました。しかしことごとく中途半端に終わっています。もはやどうしようもないところまで来て、更に市町村合併で地域の主体的活動は中心を移してしまいました。 これが日本中の本州で起きている実態です。中央に近いほど地方の衰退が進んでいるのです。 それに比べて九州や高知は随分独自の文化を育んでいるのではないかと思うのです。人々はその土地を愛している。そこで生きて死んでいくことをある意味では楽しんでいる。出てきた人もその土地への愛着が限りなくあるように思います。私は今回鹿児島半島を旅して、この土地の人達がある意味では羨ましいと思いました。鹿児島の迫さんが、・・指宿がいい、指宿以外で住みたいと思わなかった・・と言った意味が分かったような気がしたのです。 2011.4.20 今年の春はとても寒くて、今日は大阪で夜は10℃くらいでした。電力も乏しく夏は節電を余儀なくされます。きっとクーラーから出る余剰の熱がない分いつもの年より気温が低いのではないでしょうか?熱を大量に放出するから、それを冷却するために膨大な熱を奪います。足し引きはゼロですから、クーラーを使わなければきっと熱もそんなに発生しないでしょう。局在化が起きると上昇気流が発生し低気圧となります。急激な乾燥空気もできて摩擦が起これば雷も発生します。局所的なスコールも発生し、酷いところでは竜巻なんかも生じさせてしまいます。異常気象は人が作り出したきっと人災に等しいものなのだと思います。お隣の中国では治水工事が進み、大河の流域では潤っていた土地に必要な水がやってこないため乾燥状態が続き砂漠化していきます。黄河の土は乾燥して上昇気流に乗り大空高く舞い上がり、やがて偏西風に乗り韓国へ日本へとその粉塵を運びます。自然の力だけでも、昔の空は白く薄黄色く見えたものでした。春霞の正体は黄砂だったのでしょう。今はその黄砂には、中国近代化の象徴でもある大気汚染物質を吸着して遠く海を渡ってやってきます。花粉の季節、黄砂と汚染物質が我々の呼吸器系を浸食していきます。私も今年はどうやら皆さんの仲間入りのようです。檜の季節、黄砂の季節は私にとっては嫌いな季節になってしまいそうです。3月に生まれた春っこはその季節になるとウキウキとして一年の内この季節が大好きでしたのに・・ 2011.4.14 もはや1ヶ月経つのか・というのと、まだ1ヶ月しか経っていないんだね・と言うのでは重みが違います。被害の当事者である東日本の方々には先の見えない不安から長く長く感じられていることでしょう。我々は遠くにいて、皆が評論家やにわか専門家のように自分の考えを述べます。それにしても・・と思ってしまうのです。 地震が起きるのはここに生まれた運命で仕方ないことなのでしょう。津波の発生もこれも自然現象で、止めたり正確に予測できたりできないことなのだと、改めて思いました。人は偶然の事象によって、生かされもするし生かされない場合もある。それが運命ということなのでしょうか?今年は私にとってもおかしな年でした。1/9-10からいわき、富岡町に行きました。高速から見る原発から真っ直ぐに立ち上る水蒸気だか熱だかによって霧か何だか・真っ白な天に向かって伸びる白い柱が何だか不気味に見えました。凍り付いた大地に違和感があったことは否定できません。毎年冬に、島根の原発の近くに行きますがそんな物には遭遇していませんでしたが・・・ その土地は今福島第1原発の避難区域に当たり、住民はいない時の止まったような町になっているようです。つい3ヶ月前には賑やかに楽しく懐かしい日常を過ごしたところです。 この原発は人が創り出したもので、コントロールするのも人が英知を絞ってやらなければなりません。人の手によってもたらされた災害は運命とはよびません。もしも想定外で片付けられるなら、災いをもたらしたこと自体が罪だと言えるでしょう。しかし、想定外・・何度となく語られます。昨日は東電の社長が会見を開きあらゆる質問に明確な回答を避け、結局なんだという結末でした。日本では発生したことの解析が明快になされないと解決のための手が下されないという悪習があります。問題が起こったとき、まず対処して解決がなされた後に、原因を突き止めればいいと思うのです。日本人は、ちゃんと機能しているもとの状態に一刻もはやく戻すことが優秀とされます。原因が分かれば直すのは簡単ですから。外国ではまず代替法でもいいから現状を復旧させる。どんな方法でもいいから改善する。問題なくなったら、徹底的に原因を突き止めようとします。もしも、日本でこの事故の原因が分かれば、何とか突貫工事でもとの状態に回復させ・・終わりです。 現状がbest・・・それは最初創ったときはそうでしょう。だが、40年以上も前につくられたものが元に戻ったとしてそれが正解ですか?そうではないでしょう。現場の担当者が一番どうすればいいかを分かっているはずです。このような参事になったのは現場での指揮官の力が最高でない・と言うことが問題です。チリでのあの落盤事故の後、現場の中でリーダーが統率して精神的な強さを皆が持ち危機を乗り切った。今回の地震の後でも、きっと作業者達は時間が過ぎればどうなるかは分かっていたはず。それを回避させるにはどうしなくてはならないかを知っていたはずです。その時、もしも現場の責任者に最高権限が与えられていれば今回の事故は防げたのでは・・・そして縦社会の筋が通っているこの国の秩序は、ある意味では悲しくもあり恐さを感じてしまいます。 責任・権限 ・・もしその時これをしなければ確実に死ぬなら、あなたは許可を待って死ぬでしょうか・・それとも無視して生きることを選ぶのでしょうか? 2011.3.26 3/11のあの地震の事を後になれば、きっと凄いことだったのだと話すことだろう。この地震は今まで日本が被災した地震の中でも最も大きなレベルで有ることに間違いないのです。記録によれば平安時代に同じような地震があったそうです。人が少ない時代にこんな災害があればまず人は助からなかったでしょうし、見捨てられた人も多かったことでしょう。今では国際的な救援活動やボランティアが多く活動しています。人を助けなくてはいけないという気持ちは誰にでもありますし、今回のような惨状では引きこまれそうになる自分がいました。ただ、遠隔地の悲しさで何もできない私は途方に暮れるばかりです。 今年は正月9日から福島県いわき市、富岡町にお世話になり日韓ソフトテニス交流会が行われました。最初はなぜこんなに遠くで・・などと思ったものでした。しかしこれはある意味での引き合わせ、かも知れません。快く室内テニスコートを貸していただいた富岡町の皆さんは今や避難勧告が出されて自分の町に近づけない状況です。そしていつ終わるとも分からない放射能の恐怖と原発の後処理。今後復旧できるのか、いつ町に帰れるのか?それは今のところ誰にも分かりません。それよりも原発の恐怖を世界に知らしめた今回の地震でした。天変地異だから仕方がないではすまされません。最悪ではまさに死の土地になってしまいます。ダイオキシンで町を捨てたアメリカのように。チェルノブイリでの事故のように苦しみながら未来に怯えながら生き続けなければならないのかと思いながら。 そんなことになってはいけない。過去の災害から我々は何を学びどう対処してきたのか。。それは政治だけの責任ではないけれど、方向は政治が出さねばならない。分からなければ諮問機関を設ければいい。Yesmanでない集団を置いておかねばならない。それが責任ある指導者と言えるものでしょう。今回のことで国会の対応ももう一つすっきりしません。我々は本当は政治家を選んでいるわけで、党を選んでいるのではない。現在、個人で落選し小選挙区比例で党の順位が高ければ復活するなどという極めて不合理不可解なシステムがまかり通っているのは過去の政治のごり押しの悪い点が残っているだけなのです。党っていったいなんでしょう?同じ意思を持って力を一つに政を実行していく主体的集団のことですね。悪いですけど、今は弱いところを隠し合って傷をなめ合ってその場を凌ぎ、都合が悪くなれば解散、改名、改組をおこなったように見せているだけに過ぎないですね。そこには国のことなんか、人間や同胞のことなんか思っている様子が見られません。私利私欲を通していくために巨大なモンスターを、架空のモンスターを利用しているだけなのです。実態のないゴーストである党というモンスターを。さて、通常の状態で方針は党によって決まっているので相容れないかも知れません。国家非常事態宣言が出されているときに政治家のリーダー達は何をしているのでしょう。与党は人材不足で適材適所に人を配置もできない。先日辞任した大臣は何をしているのでしょう。たとえ辞任したにしても自分はここ日本丸の政権与党の中核をなしている、そして次期首相にといわれていた人物ではないのですか?そんな人が何の顔も出さない、どこにいるかも分からない。小さな25万円くらいの献金が一体何だというのですか?そんな些細なことと国家存亡の危機と同じ秤で物事を考えるのですか?男だったら、馬鹿野郎と啖呵を切って直面している現状を打開すべく先頭に立ったらどうですか?それができないような人に、誰一人としてリーダーシップを発揮できない集団に次の戦いで票をいれるでしょうか?・・きっと勝利は無いでしょう。 同じことが野党に言えるのですよ。与党が失敗すれば野党に政権が来ると思うのは大きな間違いです。誰もそんな人でなし集団に荷担する人はいません。 政治家の顔が見えないな、今は誰が財務大臣で・・・・大臣で・・・といって何人名前が言えるでしょう。何人顔が分かるでしょう。こんなことでは本当に戦争になったらどうするのですか? 憂慮すべきは国の存亡です。国は人がつくり人が壊すものです。昔なら、混乱に乗じて国を獲られます。危機感も不安感もない・・ロシアには日本を救おう!と言う横断幕。世界中が助けてくれる時代です。でも平穏なときなら、小さな領土、小さな島の一つにこだわる国々なんです。自然災害に対する国際救助とリップサービスと真実を取り違えてはいけません。善意は個の単位ではおそらく皆が持っているものです。それは決して否定はしません。彼らのSave Japan!に嘘はないのです。それは民意だからです。誤解をなされない様に。国と国との交渉毎は、団体の利益を優先に考えます。自分だけなら我慢すればいい。しかし、日本人1億数千万人に我慢を強いる人はいません。中国なら、温主席の後ろには8億とも10億ともいわれる人がいます。彼はその言葉と態度に中国全人民の利益を優先させているのです。日本も決して少ない人口ではありません。政治家の言葉の裏にはそれだけの人を支えているのだという自覚と責任と覚悟が欲しい。残念ながら、今は首相の顔は見えないが市長や知事の顔がはっきりと見え、強いという印象を持ちます。市長・知事は大統領に等しい力があり、首相は代表であって個人ではない・・という差が出ているのでしょうか?日本も、大統領制を導入したほうがいいのでしょうか?強いリーダーシップを発揮できるのはtopになればいい。そうすれば帝王学もリーダー教育も必要となります。今の日本ではtopになっても意味ないじゃん、という風潮が蔓延です。責任者のいない国・・・亡国にならないように。。 話しが脱線してしまいます。 今回は儚さを痛切に感じました。2~3分続いた地震とその30分後に押し寄せた津波のたった1時間くらいの短い時間に人が築き上げてきた全ての歴史があっという間に瓦礫になってしまいました。人も物も植物も皆命を持っています。人がいる限り物にも命と歴史があるのです。それがあっという間に何もなくなってしまう。。。ある物は地震で倒壊し、ある物は波にさらわれ、ある物は火事で焼け落ちて。。本当に厳しい試練を自然は人に与えます。人類に与えているのでしょう。どうやって立ち直りどうやって復元しどうやって秩序を保つのか? それば難しいですね。対応はできるでしょうが、人の気持ちや心の中は毛布のように包んであげる事はできません。人は儚いものだと改めて思います。 もしもこのブログを見ている福島のソフトテニス関係の人がいらっしゃれば、消息をご存知のかたがいらっしゃるならば、当協会の掲示板に書き込みください。南相馬市のお住まいの青田さん・西畑さん、いわき市の中野さんは本当に心配です。ご無事でいらっしゃることを遠くより祈っております。 2011.3.13 3.11 14:46に東北地方で大きな地震が発生しました。ちょうど金曜日の週末で休憩前でした。緩やかに蛍光灯が揺れています。実験室兼事務所なので天井からおりてきている為に大きく揺れます。しかも長く、本当にいつ終わるのだろうというくらいでした。一度目の地震が終わるとすぐにインターネットで震源と強さを確認しました。M5宮城県北部・・また宮城県・・そういえば仙台では大学をでた頃大きな地震があったな・東北大学の化学研究室がぐちゃぐちゃになり、修士・博士の修了前だったので大変だろうな・・などということを思いだしたものでした。しかし、M5で大阪まで揺れが伝わるのだろうか?その疑問は頭の中で渦巻いてました。2回目の地震が3時20分頃。この頃はすでにインターネットの情報も震度・発生場所・津波注意報などが出ています。・・これはただ事ではない!最初の疑問が確信に変わり始めました。情報収集に躍起になりましたが、まだ詳しい状況は解りません。東京に電話して、前橋に電話して、・・通じません。かつて神戸の地震の後、関東の仲間や親戚達が大阪は電話が何日も通じなかった・・と言っていたのを思い出します。 2011.2.27 クマゴロウ女子コーチのもと、月1回女子部の練習会があります。八尾市STAの会員がベースですが、こだわらず色んなところから集まっていただいています。テニスの考え方やレベルを上げていこうということで始めて早2年くらいはゆうに経過しています。もちろん技術だけでなく、心構えや考え方を一緒に勉強していこうということです。なかなか合同練習もできず、ましてやある程度のレベルになると、教えてもらうことも少なくなってきます。八尾市では、年に1回インドアでスポーツ教室をおこなっています。これは2部に別れていて、一つは全く初心者やもう何年もボールを握っていない人、もう一つは現在選手としてやっているがもう一段ステップアップしたい人、かなりの中級レベルに入っていてテニスを再始動したり・もう一度ラケットを握ってみようかという人のために分けて指導しています。おかげで教える方も、受講する方も選択できるし、指導を統一して行えるのでうまくいってると思っています。今年も早半分(4回)終わりましたが、脱落者も少なく楽しそうにやって貰っているのを見ると我々もやって良かったなあと思うものです。 それと同じように、コートに来て乱打をしてゲームをするだけでは少し欲求不満も溜まります。過保護にするのはいけないですが、問題意識を持ってテニスをより高みに持って行けるようになればそれは素晴らしいことです。長年続けているクマゴロウ女子指導部長には敬意を表しますし、楽しみながらテニスがうまくなっていく皆さんも素晴らしいです。今日は良いニュースがありました。2010年度の大阪府ランキング発表があり、シニア男75:1位 余田尚正 成年女:2位 塚本かおり 一般男:5位 須山恒旨 と入りました。皆さんおめでとうございます。また来年も表彰してもらうよう頑張ってください。特に女子部では近年久々に塚本さんがランキング入りをしてくれました。 月1回やっている女子部の練習会には、参加希望の方があればメールでも、八尾市STAの知り合いにでも声をかけて参加していただいて結構です。ソフトテニスの和を広げていきましょう!! 2011.2.26 八尾市のテニスコートが改修されて新しくなりました。しかし出来立ては砂が多く、ボールが飛んでこないなという気がします。合成樹脂ストリングと人工芝のおかげで全くテニスが変わりました。雨ならできないという過去の概念は破られ雨が降っていなければ、いや降っていても水が浮いてこなければ試合は中止になることはありません。おかげで遠くのローカルの試合でも出かけていこうという気になりますし、一喜一憂していた過去が嘘のように思えます。やがてはこれも当たり前になり、何いってんの?、といわれる時がやってくるのではないでしょうか?ただ気をつけなくてはいけないのは、足への負担がかかりすぎ、膝や足首の故障が多くなるのではないかと懸念されます。現に私も膝を痛めてますし、雨で滑って転んで腰を痛めたり、捻挫、膝の靱帯を切ったりする人の話を聞くことが多くなりました。体には注意して、いいところを利用して楽しみましょう。 2011.2.9 先週の土曜日は寝屋川でインドア大会がありました。近年インドアの大会参加は招待の松江と地元の八尾の大会くらいであまり出ていませんでした。理由は目があまりよく見えそうでないことと、膝に負担がかかるので冬の間に故障したくないなと思ったことが原因でしょうか?でも今年は、なんだかんだといいながら色んな試合に呼ばれては参加させてもらっています。練習もいいのですけど、冬の間にとぎれてしまう緊張感を持続できるべく毎週やれるのは有り難いことです。昨年の轍を踏まないように、今年は試合で気迫を見せようと思っています。1/23の羽曳野インドアでも小早川氏と組み、佐伯・木下ペアに予選で1敗しましたが、トーナメントでは振り切って頑張ってみました。だめかも知れない・と思う気持ちを顔を上げて踏みつけてコートに向かいました。そのおかげでかどうか分かりませんが勝つことができたのでした。忘れていた向かっていく気持ちを取り戻せたようでした。寝屋川でもその気持ちになろうと思いますが、忘れるものなのですね、なかなか同じようにはいきません。でも、ミスしてもミスしても今回はいってみようと決めていました。途中の試合でもいくつか追い詰められたような場面がありました。僕のミスが続き、中村氏も珍しく愚痴のような言葉が出てきます。しかし・・僕は思うのです。それでいいのだと、ペアはこうするよと、こうしたよとやってみて「今のはダメだぞ」とか「ナイス思い切り」とか言葉のコミュニケーションがあって初めてペアなんだと思うのです。何を考えているかなんて、やっぱり分からないのです。何年やったペアでも、最終的には勝ったとしても途中の段階では誤解の方が多いんじゃないでしょうか・・結局、追っかける展開も追いつくことができましたし、突き放すときも思い切りよく打ち切ったり取りきったり出来て収穫の多い大会でした。結果は優勝でしたが、途中は危ないことばかりでした。綱島・小森ペアにはブランクからか取り切れないところがありラッキーでした。音川・高田ペアは1-3までリードされたのですが、1本目のレシーブミスから後簡単にファイナルまで落としてしまう音川さんの悪い癖でこれまたラッキーでした。高田さんのフォローは凄くポイントで何本も拾われもたつきました。あれがなければもっとすんなりと行っていたはずです。油断をしてはいけません。ちょっとした気のゆるみがソフトテニスには大きな傷となってやってきます。この試合の相手のペア毎、引きずり込むような挽回のエネルギーが昨年は無かったのです。今年はグイグイとボールを呼び込み、後衛も苦しいときがあるのでそんな時気を楽にさせてあげればもう少し、後衛に余裕が出来るんじゃないでしょうか。勉強は続きます。 2/6は大阪インドアでした。毎年一度の試合を楽しみにしています。今年は、残念ながら昨年と同様に決勝戦が男女ダブル進行という最悪の結果でした。選手の集中力も落ちます、はっきりと解りました。そうでなくても男子はダブル並行陣で見ていても面白いと言えるレベルではありません(見る方のレベルもですよ)。興ざめた1日となってしまいました。また、昨年に比べ鹿島選手の切れが無く、いつもより1mはボールが短くて相手に自由にコントロールされていました。もう就職かも知れませんし、アマチュアに無理は言えませんが、君たちも大学をでれば今までの消えていった有望選手と同じなのか、と言いたくなってしまいます。ただ前衛では井口選手がプレーの安定感では良い前衛だったと思います。中本選手よりは数段上だなと感じたものでした。今月のテニスマガジンに載っている向井選手は雑誌の解説ほどではなく、早川選手の方が安定しているなという感じです。彼らも練習量が無くなればもう2段階ほど落ちていくのでしょうか。今回中堀・高川は早川・向井ペアに負けたそうですが、彼らも勝ったならもっとプライドをもって決勝に臨んでもらいたいと思ったものです。戦術は少なくて技術力や若さ故の豊富な運動量でたまたま勝っただけなのでしょうか?そうは思いたくありません。プライドが欲しいのです。話は全然違うのですけど、今日も相撲の八百長問題で、今を凌げれば何とか謹慎くらいで済むと考えてる若い力士がおおいのでは?とTVでは大論戦です。男気や潔さなんてものが見あたらない世の中ですねというより認められない世の中ですね。。いい状態の時は何でもいいますし勝てば官軍で、それが正義と一緒なのです。不合理を感じながらもそれも真理の一つかと言わざるを得ません。実績なのですから。しかし、問題は負けたとき、困ったときですね。潔かったり、引いたりすると・・損だという考え方が大勢を占めます。その姿が男らしいとか素晴らしいとか誰も言いません。損して馬鹿だなあとか格好いいでは食えないぞとかにたにた笑って、自分には関係ないという人の増えたこと・・・計算や勘は鋭いですね、損得の。だけど、スポーツや生きるってことは、泥まみれにならんと本当の底までは解らんのじゃないでしょうか? 今回、何人かの役員さんから、来年から大阪インドアのスタッフに・と言われましたが、もし私がスタッフになったらそれなら私は主張を通させていただきます・と考えています。 途中の小学生とのラリーの時間はもっと削って、いい試合をしっかりと見れる大会にしたいと思います。2000円も金を出して、遠方から1日使って子供のラリーを見に来ているのではないでしょう。これは全日本インドアソフトテニス選手権大会です。日本で最も権威のある、そして伝統があり、一度は出ることを目標にしている最も素晴らしい大会なのです。東京インドアも確かにいい大会です。しかし、この大会は前年度の全日本ランキング、東西日本チャンピオン、インカレ、インハイチャンピオンなどその時の趨勢によって若干選考基準が変わりますが、何はともあれ全日本の少なくとも15位以内に入っている選手と認められたことなのです。そして日本各地から旅費、宿泊費を払ってまで招待しているのです。選手も全力を尽くして欲しいし、スタッフはそうなるべく環境を整えてさし上げることでしょう。にもかかわらず、努力がなされていないではありませんか? 相変わらず審判をシニアがやってます。速い球を判断するのにシニアではミスもでます。また、ボールボーイは置いてません。全部とは言いません。準決勝・決勝だけでもボールボーイをつけてはどうでしょう。それこそラリーをやって貰った小学生が一生の思い出に最高の試合のボールボーイを務めるということに誇りをもたせるよう育てていくことが出来ないのでしょうか? 前にも書きましたが、中学校や高校でも後輩達に練習時にボールボーイをやらせるのです。なぜ、日本で最高の試合にボールボーイを置くことができないのか? 私には理解できません。こぼれたボールを選手が一生懸命追いかける。これこそ見るスポーツではあり得ないことです。ソフトテニスがやっている人だけのスポーツから、見るスポーツへ成長するためにはその環境を整えなくては。サッカーだっていくつもボールが用意されていて、シュートがとんでもない方向へ飛んでいっても5秒もしないうちに新しいボールが出されます。さらに一番集中しなくてはならない決勝戦を同時進行でやらせる。こんな信じられない常識外れなことをやっていいのですか?ソフトテニスという団体としてとして恥ずかしいと思いますよ。ウィンブルドンや全米オープンが男女同時進行でおこなわれますか? また、テレビ中継があったらやりますか? やらんでしょう。衆人環視がある時はやらなくて、見ていなければ素人のやっている大会と変わらないことを平気でやる・・・これこそがソフトテニスの世界の現実なんです。こんなことでオリンピックの正式種目を目指すだの公益法人になるだの夢みたいなこと言ってられないでしょう。これが難しくって解決できないことならそんなに文句も言いません。すぐできることではありませんか?何年も同じことを言い続けるのはイヤですが、一人くらい文句言う奴がいないとイカンと思い苦言を言います。 2011.2.1 今日は寒い1日でした。大寒波がやってきています。日本海側では記録的な大雪で毎年の3倍近い降雪量があるそうです。温暖化していることと雪が降ることとは関係ないのでしょうか。昨日も奈良で練習しました。その時中村さんが・今年は川に氷が張ってるよ・といいました。小さな川ではありません。大和川の澱みのところです。子供の頃は当たり前でしたが最近は滅多に見られません。しかし、今年は・・です。日本だけでなく世界中色々起こっています。気象の偏在化とでもいえばいいのでしょうか、地球全体を見れば平均の熱エネルギーは一定のように思われます。しかし、極端にでこぼこが生じています。昨日の国際気象NEWSではオーストラリアでは40~42℃をずっと保っているのだと。。日本の35~6℃はまだ可愛らしいものなのでしょうか? 何かが狂っているようだと思いますが、たかだか5~10℃の温度変化のことで地球規模では良く起こっていたことなのではないでしょうか? 僕にはそう見えます。間氷期と氷河期を繰り返している地球。地軸さえも一度傾いただけでサハラ砂漠が海と緑に囲まれた大きな緑豊かな土地に姿を変えていくように、微々たるものの異変で死に絶えてしまわなければならないほどこの命は儚いものなのです。 なんてことを言いながら、僕は平和にもテニスのことを考えて生きています。そろそろ一年の計画を立てようかな・と思っています。3月までの試合、練習の予定は大体たちました。少し今年はゆっくり目です。でもすでに2試合一月中にありました。このペースは毎年とさして変わりがないようです。ただ毎年と違う試合に参加しています。 1/9-10は韓国の皆さんと福島県で交流会がありました。その様子は写真で紹介していますのでまたご覧下さい。試合があまり紹介できていませんが、ご勘弁下さい。やはり東北は寒かったですよ。1/8は移動で途中北茨城下車し、練習をしました。中島氏と津吉氏が声をかけてくれていました。地元の人はどなただろうと思っていたのですが、どこかで見覚えのある人だと思ったら、永井さんと八木澤さんでした。八木澤さんは新潟の全日本でシニア50に出ておられて16本まで残られました。昨年北九州はミックス65で奥さんとのペアで全日本を制しておられます。そのバックのスーッと糸を引く長い鋭いレシーブと流れるようなボレーで僕はたちまち素晴らしい先生に出会ったと見入ってしまいました。そうして、思わず名刺をお渡しして機会があれば是非お相手お願いしますと言って別れたのでした。偶然とは不思議なものです。茨城県の人とは知っていましたが、まさかここでお会いするとは、本当にこの機会を設定してくれた中島氏に感謝するものです。この日は3時に日立に着きそこから40分ほど車で走ってコートには3時半過ぎでした。雲一つ無く風もなく真っ青に澄み渡った大地は空気が透明でした。そして幸運なことに4時半過ぎまでテニスができました。普通は1月初めなら4時半までとのことでした。やはり日本の東にあります。大阪とは日没が30分以上違うのです。永井・八木澤ペアと1-1、中島・若手ペアと1-0 合計3試合やりました。やはり八木澤さんは素晴らしい。とても67には見えません。再会を約して、夕食へと向かいました。北茨城はアンコウの産地です。素晴らしい料理で美味しく頂きました。 旅館には10時過ぎにつき、韓国の孫さん達と少し歓談して眠りました。 次の日は朝は寒いけれどもまだ風もなくいい天気の続きでした。もう1日保ってくれればいいがと思いましたが、そうはいきませんね。ここは北国、1月に屋外でテニスをするなんて望めない場所です。ただ、いわきは太平洋岸で黒潮の影響で雪は積もりません。何とか雪は午後から降り始めましたが、テニスはできるくらいでした。我々のゾーンは50歳以上です。地元のペアと1回戦から激戦です。後衛はラリーがミス無く続くし前衛もパワフルです。青田・西畑ペアは福島のチャンピオンとのこと、上手いはずです。次は中野・佐藤ペアです。こちらも東北チャンピオンと強い相手でした。1回戦やれやれと思いましたが、中野さんは広島の宮本選手タイプで柔らかく、隙があれば打ってくるタイプです。前衛の佐藤さんは後で知ったのですが、昨年の全日本シニアミックス50チャンピオンとのこと、あれよあれよという間に1-3です。ここから粘るのと新開さんのストロークがミス無く入り始めて何とか逆転できました。厳しいdrawです。続いては新沼・磯口ペア。2010年度東日本シニア50の3位ペアです。昨年は磯口さんは荒削りという印象でしたがこの日はかなり冴えていました。ハイバックボレーが上手いですね。またデフェンスがよくてなかなか近くが通りません。新沼さんもいいペアに巡り会ったと思います。新沼さんも次第にミスが無くなってきました。負けていても集中して時間を味方にする方法を覚えて来たようです。高宮も良くやっていたのですが、時間ギリギリまでサーブをしない、間を自分のものにしてからスタートする、という方法です。最近の試合のスピードアップでレッツプレイというのがありますが、そうなると心の問題よりスキルの問題だけでテニスの勝負が決まってしまいます。劣勢になったとき、自分がどうやって自分を取り戻せるか・・それもテニスをやっていく中で非常に大切なことの一つです。一瞬で切り替えられる人もいるでしょう。時間を有効に使いながら徐々に間合いを詰めていく人もいるでしょう。お分かりと思いますが、勝っているときは時間が十分にあります。負け始めるとあっという間に時間が過ぎていきます。この時間の使い方をもっともっと勉強するべきと思います。 この日の新沼・磯口ペアは集中していました。我々は④-1で完敗でした。これだけの韓国選手団のお世話をしながらしかもテニスへの集中が続けるようになった新沼さんは本当に素晴らしいですね。テニスに賭ける、勝負に賭ける意気込みには脱帽です。ちなみに、優勝で花を添えました。2位は菊地・本田ペア。途中で流れが2回ほど変わったのですが、最後は攻めきりました。 3日目は団体戦。場所は富岡町のドームです。テニス専用のインドア3面です。インドアだから暖かいかと思いましたが、仙台まで近く北に上がったせいか底冷えがします。ウェアを2-3枚着込んでいるのですが全く汗をかきません。僕のような汗かきがシャツを一枚も替えないでいられるくらいなのでした。団体戦ではやっと韓国選手と試合ができることになりました。Kim hwan sung・Oh yoon sukペアです。練習をしている格好は韓国の選手はぎこちなく思えます。しかし、勝負になるとそれ以上のものを出してくるような気がします。このペアも闘志むき出しで向かってきます。一本目からポーチ、後衛は左利きでどんどん側を攻めてきます。あまり油断していては危ないなと思いましたが、新開さんがこの日も調子がだんだん上がり後半には目の覚めるような鋭い当たりが出るようになりました。④-1で勝ち。2次戦は電車の都合で1戦目にさせていただきました。相手は新沼・鈴木ペア。鈴木さんは地元のNo.1前衛でずっと国体に出られていたそうです。ストロークもボレーも攻撃的ですし安定しています。少しブランクがあるのでボールへの対応が少し甘いようでしたが。この試合、新沼さんには2回続けて負けられないなと新開さんも気合いが入ってました。最初から飛ばして3-1まで。しかしここから新沼氏の時間マジックが始まりファイナルまで追いつかれます。ファイナルもどうなるか分からない展開でしたが、何とか逃げ切りました。新沼氏はコートに大の字になって寝ころび口惜しがっていました。それくらいの気持ちがないと、拘らないと勝負を呼び込めないですね。これから長いこと勝負をやっていく相手です。僕もうかうかしていられません。 少し早めに帰るといったら、菊地ペア、孫氏なども後で試合を・・と考えていたと残念がっていました。我々も残念ですが、またの機会に。韓国孫団長には60歳になった年には各国大統領杯にまたいきますのでソウルで会いましょうと言って別れました。英語の話せる数少ない人の一人でした。中学校の校長先生です。 富岡を16:45に出て大阪には23:30との最初の予定でしたが、試合を早めに繰り上げてもらったので14:30の電車に乗れました。大阪には22:00着。これならまあ大丈夫です。しかし、やっぱり遠かったです。ワガママ言って済みませんが、次やるときは飛行場か新幹線沿いのところにして欲しいです。宜しく。 2011.1.4 2011年、新年明けましておめでとうございます。新しい年の明けるのにワクワクとするのは、最近ではテニスだけになってしまいました。時代が変わっていくのも感じますし、自分がやってきたことが果たしてこれで良かったのかと自問することも多くなってきました。一生を総括するのはちと早いでしょう。しかし60という節目はやはりある意味では、区切りなのでしょうね。まだあと2年ありますが、今年の年賀状はそういった文面がやたら目についたものです。・・・定年になりました。・・・早期退職をして別の仕事をしています。・・・週3日ほど行ってます。・・・全てがゆったりとしています。・・・などなど。 大学で懇意にしていただいた諸先輩はマスターを出た方々は2年上、大学同期でも一浪していれば今年は卯年で定年です。私は3月生まれなので2年と言いましたが、実は同学年で最も速い人は4月で定年ならあと一年と少ししかないのです。そうか~と暢気な私は、口ではもうすぐだよ・といいながら、遠くにあることのように思っていました。でも現実は時間はひたひたと迫ってきています。昔なら60歳なんてじじいもじじい、体なんか動かない老いぼれと思っていたのです。でも今は・・現金なものでそんなことは微塵も思っていません。心も体も30か40かそれくらいにしか思っていないのですから。 でも感じてしまいました。そして心と現実社会のギャップ。受け入れられない、どうしようもない理想と現実の隔絶感、それを特に意識するようになったのはいつの頃からなのでしょう。 私の求めてきたものは一体何だったのか? 私が望んだ姿なのかこれは? 私は何を残してきたのか? 私は本当に何がしたかったんだろう? これで本当に良かったのだろうか? 自分が納得できるほどやりたいことがやれたのだろうか? 日本の会社というところは、やっぱりホワイトカラーが大事なのでしょうかねえ。私はメーカーに勤めましたが、研究に打ち込み新しいアイデアを出し、売れるものをつくり、設備を作り製品を世に出して、少なからずとも社会貢献もできたかな・・皆さんの便利な幸福になる社会の一助ができたかな・・と思っていました。もちろん今でもそう思います。私の生み出した子どもたちは姿を形を変えてきっと皆さんの近くにいて、日夜役立っていると確信しています。 私はそうやって研究者として過ごしていくものと思っていましたが、管理者とならなくてはこの小さな世界では認められないようなのです。 でも本当にそれが良いことなのでしょうか? それが自分にとって良かったのでしょうか? 答えはまだ分かりませんが、このような疑問が浮かび上がってくることが答えなのではないでしょうか?